1941年、大衆劇場「ムーランルージュ新宿座」に入座すると、1951年に解散後は、「劇団民藝」を経て、1969年、山田洋次監督映画「男はつらいよ」の主人公・車寅次郎のおば(車つね)役を演じ、たちまちブレイクを果たした、三﨑千恵子(みさき ちえこ)さん。
今回は、そんな三﨑千恵子さんの、若い頃からの経歴や出演作品をデビューから時系列でまとめてみました。
三﨑千恵子のプロフィール
三崎千恵子さんは、1920年9月5日生まれ、
東京府北豊島郡西巣鴨町(現・東京都豊島区)の出身、
身長159センチ、
学歴は、
東洋高等女学校卒業、
本名は、「宮阪トシ」で、旧姓は「榊原トシ」というそうです。
三﨑千恵子は19歳の時にコーラスの発表会でスカウトされて松竹演芸部に歌手として入社
三﨑千恵子さんは、青果問屋を営むお父さんのもと誕生すると、高校卒業後、白木屋百貨店(現在の東急百貨店)に入社し、会社のコーラス部に入部したそうですが、
発表会の時にスカウトされて、1939年、19歳の時に、松竹演芸部に歌手として入社したそうです。
三﨑千恵子は21歳の時に大衆劇場「ムーランルージュ新宿座」に入座し、その後座長の宮阪将嘉と結婚していた
そんな三﨑千恵子さんは、1941年、21歳の時には、大衆劇場「ムーランルージュ新宿座」に入座すると、女優として活躍したそうです。
そして、いつ頃かは不明ですが、座長の宮阪将嘉(みやさか まさよし)さんと結婚すると、戦後は、夫の宮阪将嘉さんと共に、座長夫人として劇団を切り盛りしたそうですが、
新宿でストリップ劇場が始まったことで、客足が流れたことから、劇団の経営は火の車だったそうで、三﨑千恵子さんは、三越の着物ショーなどのアルバイトや質屋通いをして劇団員のお給料を払っていたそうです。
(団員には、由利徹さんや森繁久彌さんがいたそうです)
三﨑千恵子が31歳の時に「ムーランルージュ新宿座」が解散
ただ、そんな「ムーランルージュ新宿座」も、1951年(31歳の時)には解散となり、大道具や小道具、結髪(美容師)に大きな借金が残ってしまったそうで、三﨑千恵子さんは、1951年~1958年まで、7年かけて借金を返済したそうです。
ちなみに、三﨑千恵子さんは、自身の仕事で稼いだお金で借金を返済していたそうですが、それでも、返せるお金が少なかったため、借金返済の際には、雑巾やほうきを持って行き、せめて掃除をさせてくださいと言ったそうです。
それでも、家の中に入れてもらえなかったことから、三﨑千恵子さんは毎月1回返済のためお金を持っていくたびに、玄関の前を掃除をしていたそうですが、やがて、家の中に入れてもらえるようになり、手伝いをさせてもらえるようになったそうで、
7年かけて借金を完済した際には、それぞれの技術(衣装係なら縫い物、髪結いならかつら作りなど)を習得するまでになっていたのだそうです。
三﨑千恵子は34歳の時に新藤兼人監督映画「どぶ」で映画デビュー
そんな中、三﨑千恵子さんは、1954年、34歳の時には、夫の宮阪将嘉さんと共に、劇団民藝に入団すると、「アンネの日記」などの舞台に出演したそうです。
また、同年には、新藤兼人監督映画「どぶ」で映画デビューも果たしています。
三﨑千恵子は49歳~75歳の時「男はつらいよ」シリーズで主人公・車寅次郎のおば(車つね)役
その後、三﨑千恵子さんは、1967年、47歳の時には、劇団民藝を退団すると、以降、テレビや映画に活動の場を移し、
1969年、49歳の時には、山田洋次監督映画「男はつらいよ」で、主人公・車寅次郎(渥美清さん)のおばさん(車つね)役で出演すると、
以降、葛飾柴又帝釈天の門前通りで草団子店を守り、恋に破れた寅次郎が戻ってくるたびに、
イモの煮っころがし作っといたからね!
と、温かく出迎えるなど、愛情深い演技で、シリーズ最終作の第48作「男はつらいよ 寅次郎紅の花」(1995年)まで、欠かさず出演しています。
「男はつらいよ」より。
三﨑千恵子は52歳の時に「パパと呼ばないで」で井上時枝役
そんな三﨑千恵子さんは、松竹映画を支えるバイプレイヤーとし活動するのですが、1972年、52歳の時には、テレビドラマ「パパと呼ばないで」で井上時枝役を演じています。
「パパと呼ばないで」より。三﨑千恵子さんと有吉ひとみさん。
三﨑千恵子は66歳の時に映画「新・喜びも悲しみも幾歳月」「キネマの天地」「虹をつかむ男」
また、三﨑千恵子さんは、1986年、66歳の時には、
- 「新・喜びも悲しみも幾歳月」
- 「キネマの天地」
- 「虹をつかむ男」
などの映画にも出演しています。
三﨑千恵子は71歳~74歳の時は「渡る世間は鬼ばかり」(第1‐2シリーズ)で塚田咲枝役
そして、1991年~1994年(71歳~74歳)には、テレビドラマ「渡る世間は鬼ばかり」(第1‐2シリーズ)で、塚田咲枝役を演じています。
「渡る世間は鬼ばかり」より。
三崎千恵子は91歳の時にドキュメンタリー映画「ムーランルージュの青春」に車椅子姿で出演
また、三﨑千恵子さんは、いつ頃かは不明ですが、神奈川県鎌倉市の高齢者施設に居を移していたそうで、
2011年10月、91歳の時には、ドキュメンタリー映画「ムーランルージュの青春」に車椅子姿で出演し、当時の思い出などを話していたそうです。
三﨑千恵子の死因は老衰
そんな三﨑千恵子さんですが、2012年2月13日、午後7時15分、老衰により、91歳で他界されています。
ちなみに、三﨑千恵子さんは、年齢的なことから、2011年秋頃から満足に食事がとれなくなり、(施設に併設された病院に)入院し、点滴で栄養を摂取する状態が続いていたそうですが、亡くなる直前まで意識ははっきりしていたといいます。
(2月には、「男はつらいよ」の山田洋次監督もお見舞いに駆けつけていたそうです)
そして、家族や50年近く付き添った弟子に見守られながら、静かに息を引き取ったのだそうです。