1934年、清水宏監督映画「金環蝕」で女優デビューすると、1935年には、映画「彼と彼女と少年達」で共演した上原謙さんと共に、「アイアイコンビ」と呼ばれて人気を博し、

その後も、日本人離れした抜群のスタイルと都会的な美貌で、次世代スターとしての地位を確立した、桑野通子(くわの みちこ)さん。

今回は、そんな桑野通子さんの、生い立ち、若い頃(デビュー前)、デビューからの出演作品、夫、娘、死因についてご紹介します。

桑野通子

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桑野通子のプロフィール

桑野通子さんは、1915年1月4日生まれ、
東京市芝区三島町(現・東京都港区)出身、

身長158センチ、

学歴は、
三田高等女学校(現・三田国際学園高等学校)卒業、

ちなみに、本名は「桑野通(くわの みち)」で、愛称は「ミッチー」だそうです。

桑野通子は高校卒業後は森永製菓の初代スイートガールとして活動していた

桑野通子さんは、とんかつ屋を営むお父さんの半二郎さんとお母さんのよしさんのもと、長女として誕生すると、

三田高等女学校をトップクラスの成績で卒業後、森永製菓に入社し、初代スイートガールとして、販売促進・営業宣伝のため、全国の百貨店やキャンデーストア(森永製菓直営のストア)を巡っていたそうです。

桑野通子は10代の時にダンスホール「フロリダ」のダンサーに転身すると客が押し寄せるほどの人気を博していた

その後、桑野通子さんは、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」のダンサーに転身したそうですが、その美貌と抜群のプロポーションで、たちまちお客さんが押し寄せるほどの人気となったそうで、

後に、映画で共演することになる上原謙さんは、その頃の桑野通子さんについて、著書「がんばってます 人生はフルムーン」で、

ダンサーの席順は売り上げによってかわるが、彼女はたいていは一番の人気ダンサーだった。バンドが始まると、売れっ子の娘たちのところにチケットをもった客が殺到する。

私もその大勢の客のなかに混じって、ようやく彼女の手をとることができた。胸をときめかせながら、たった一度だけフロリダ時代の彼女と踊った思い出は忘れることができない

と、綴っています。

桑野通子は19歳の時に映画「金環蝕」で女優デビュー

そんな桑野通子さんは、1934年、19歳の時、ダンスホール「フロリダ」でダンサーとして働いているところを、松竹にスカウトされると、同年、清水宏監督映画「金環蝕」で女優デビューを果たしています。

桑野通子
「金環蝕」より。

桑野通子は20歳の時に「彼と彼女と少年達」で上原謙と共演し「アイアイ・コンビ」として人気を博す

そして、1935年、20歳の時には、清水宏監督映画「彼と彼女と少年達」で、上原謙さんと共演すると、

その後も、

  • 1936年(21歳)「有りがたうさん」
  • 1936年(21歳)「男性対女性」
  • 1939年(24歳)「兄とその妹」

などで、上原謙さんと共演を重ね、「アイアイ・コンビ」と呼ばれ、上原謙さんと共に人気を博します。

桑野通子
「彼と彼女と少年達」より。

桑野通子は20代~30代の時に小津安二郎監、清水宏監督、島津保次郎監督など名監督の作品に次々出演

そんな桑野通子さんは、以降、

  • 1936年(21歳)「感情山脈」(監督:清水宏)※主演作
  • 1936年(21歳)「家族会議」(監督:島津保次郎)
  • 1937年(22歳)「淑女は何を忘れたか」(監督:小津安二郎)
  • 1937年(22歳)「恋も忘れて」(監督:清水宏)※主演作
    「恋も忘れて」
    「恋も忘れて」より。
  • 1937年(22歳)「男の償ひ」・前後篇(監督:野村浩将)
  • 1937年(22歳)「進軍の歌」(監督:佐々木康)
  • 1938年(23歳)「蛍の光」(監督:佐々木康)
  • 1938年(23歳)「家庭日記」(監督:清水宏)
  • 1939年(24歳)「向日葵娘」(監督:佐々木啓祐)
  • 1939年(24歳)「新女性問答」(監督:佐々木康)※主演作
    「新女性問答」
    「新女性問答」より。
  • 1939年(24歳)「続愛染かつら」(監督:野村浩将)
  • 1939年(24歳)「波濤」(監督:原研吉)※主演作
    「波濤」
    「波濤」より。
  • 1939年(24歳)「愛染かつら 完結編」(監督:野村浩将)
  • 1940年(25歳)「愛の暴風」(監督:野村浩将)
  • 1940年(25歳)「西住戦車長伝」(監督:吉村公三郎)
  • 1941年(26歳)「元気で行かうよ」(監督:野村浩将)
  • 1941年(26歳)「戸田家の兄妹」(監督:小津安二郎)
    「戸田家の兄妹」
    「戸田家の兄妹」より。
  • 1942年(27歳)「新たなる幸福」(監督:中村登)
  • 1943年(28歳)「をぢさん」(監督:渋谷実、原研吉)
  • 1943年(28歳)「假面の舞踏-秘話ノルマントン号事件-」(監督:佐々木啓祐)
  • 1944年(29歳)「不沈艦撃沈」(監督:マキノ正博)
  • 1945年(30歳)「伊豆の娘たち」(監督:五所平之助)
  • 1946年(31歳)「女性の勝利」(監督:溝口健二)※遺作

などの作品に出演すると、

日本人離れした抜群のスタイルと都会的な美貌で、高峰三枝子さん、高杉早苗さんと並ぶ次世代のスターとして人気を博したのでした。

また、小津安二郎監督、清水宏監督、島津保次郎監督など、日本を代表する名監督の作品へ次々と出演し、名実ともに、日本を代表する女優となったのでした。

桑野通子の死因は?

しかし、1946年3月29日、桑野通子さんは、溝口健二監督の映画「女性の勝利」の大船撮影所で撮影中、あとワンカットというところで、突然、倒れ、大船病院に緊急搬送されると、

同年4月1日、(2度目の妊娠中だったそうで)子宮外妊娠による出血多量が原因で、31歳の若さで他界されたのでした。

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桑野通子の夫は?娘は桑野みゆき

ちなみに、桑野通子さんは、生涯に渡り、一度も結婚したことがなく、独身でした。

ただ、桑野通子さんは、1942年7月17日、27歳の時、森永製菓のスウィートガールとして活躍していた頃から親交のあった、森永企画部の斎藤芳朗さんとの間に女の子を一人出産しており、この娘さんというのが、女優の桑野みゆきさんです。

(斎藤芳朗さんは妻子ある身だったため、桑野通子さんはシングルマザーとして桑野みゆきさんを育てていたようです)

お読みいただきありがとうございました

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