整った顔立ちとスラリとしたスタイル、明るく爽やかなキャラクターで、男性を中心に人気を博した、高杉早苗(たかすぎ さなえ)さんですが、
幼少期から養女に出され、実質、女中として働かされると、その後も、高校生の時には、家計を支えるため、新橋ホールでダンサーとして働いていたといいます。
今回は、そんな高杉早苗さんの家系図と生い立ちをご紹介します。
高杉早苗のプロフィール
高杉早苗さんは、1918年10月8日生まれ、
東京市浅草区馬道町の出身、
学歴は、
立正高等女学校(現・東京立正高等学校)中退、
本名は「清水弘子」で、結婚後は「喜熨斗弘子(きのし ひろこ)」です。
高杉早苗の家系図
高杉早苗さんは、三代目市川段四郎さんと結婚したことから、
長男が、二代目市川猿翁(三代目市川猿之助)さん、
次男が、四代目市川段四郎さん、
長女が、市川靖子さん、
と、家族全員が著名人であるほか、
香川照之(九代目市川中車)さんは孫、
五代目市川團子さんは曾孫です。
高杉早苗は幼少期に養女に出され女中代わりに働かされていた
高杉早苗さんは、栃木県足利の旧家の出身だったそうですが、没落してしまったことから、幼い頃に、清水家の養女(実際は子守をするなど女中代わり)に出され、とても苦労して育ったそうです。
ただ、高杉早苗さんは、もともと、楽天的な性格だったそうで、
長男の三代目市川猿之助(二代目市川猿翁)さんは、
それでやってこれたわけです。
と、語っています。
(高杉早苗さんは、それまで、一般的な経歴では、商事会社を営むお父さん(清水)のもと、3人きょうだいの長女として誕生すると、裕福な家庭で何不自由なくわがまま放題に育ったとされていましたが、実際は違っていたようです)
高杉早苗は高校在学中に家計を支えるため新橋ホールでダンサーとして働き始めていた
また、高校在学中には、清水家の会社が経営破綻し、養母が待合(芸者との遊興や飲食を目的として利用するためのお茶屋)を始めたことから、
高杉早苗さんも、家計を助けるため、高校を中退し、新橋ホールでダンサーとして働き始めたといいます。
「【画像】高杉早苗の若い頃(デビュー)からの出演映画ドラマは?死因は?」に続く
1934年、16歳の時、映画「隣りの八重ちゃん」で女優デビューすると、同年、「山は夕焼け」ではヒロインを務め、その近代的な整った顔立ちや、大柄でスラリとしたスタイル、明るく爽やかなキャラクターが、男性を中心に人気を博し、 …