中学時代の丸3年間は、歌舞伎の舞台はわずかで、学校の演劇部の活動に夢中になっていたという、二代目市川猿翁(にだいめ いちかわ えんおう)さんは、高校に進学してからも、演劇部で精力的に活動していたそうですが、実は、両親が嫌いで、一人、実家を出て、祖父・二代目市川猿之助(後の初代市川猿翁)の家に移り住んでいたといいます。

「市川猿翁(2代目)の中学時代は歌舞伎の舞台にほとんど出ていなかった!」からの続き

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高校でも演劇部で台本・演出を手掛けるなど精力的に活動していた

11歳の時から中学時代の丸3年間は、両親の方針により学業重視で、歌舞伎の舞台にはほとんど出ず、勉強と演劇部の活動に没頭したという猿翁さんは、高校生になると、歌舞伎を再開したそうですが、

引き続き、学校の演劇部でのお芝居も熱心に取り組み続けたそうで、1年生の夏休みには、日本橋にあった白木劇場を借り、「宝島」3幕9場を脚色・台本も手掛けて、「フリント船長の霊」役を演じると、

(これでもかと趣向を盛り込んだ猿翁さんの脚本がおもしろかったようで)観に来たおじいさん(二代目市川猿之助)に、「お前、舟橋よりうめえや」とほめられたそうです。

(舟橋とは、おじいさんの親しい小説家で、文士劇の常連だった舟橋聖一さんのこと)

また、高校卒業前には、劇団「くるま座」を仲間と結成すると、旗揚げ公演では、「行く先は何処だ」という空想スペクタクル物の台本を書いたのだそうです。

(「行く先は何処だ」には、皇后雅子様(小和雅子さん)のお母様・江頭優美子さんも参加していたそうで、演劇部員の憧れの的だったそうです)

高校時代は実家を出て祖父・二代目市川猿之助(後の初代市川猿翁)の家に移り住んでいた

そんな猿翁さんは、高校時代には、麹町の実家を出て、赤坂一ツ木に住むおじいさん(二代目市川猿之助。後に初代市川猿翁)のもとへ移り住み、7年間、おじいさんと一緒に暮らしたそうですが、

(おじいさんは、猿翁さんのために、母屋続きに、こたつ式の和室、洋室コーナー、本棚がある部屋を作ってくれたそうです)

実は、猿翁さんは、この頃、この世でお父さん(三代目市川段四郎さん)とお母さん(高杉早苗さん)が一番嫌いだったそうで、

(反抗期という訳でもなかったそうですが、ゴルフや野球が好きで、芝居の話をすると怒る、サラリーマンタイプのお父さんが嫌いだったそうです)

一方、おじいさん(二代目市川猿之助)はというと、寝ても覚めても芝居の話ばかりし、孫の猿翁さんに対しても、本気になって怒って議論をふっかけたりしたそうで、そんな、気が若く芸術家肌のおじいさんといる方が面白かったのだそうです。

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祖父・二代目市川猿之助(後の初代市川猿翁)には歌舞伎の手順や技術よりもイキや表現を自分でつかめと教えられていた

そんなおじいさん(二代目市川猿之助)には、「連獅子」の子獅子、「二人三番叟(ににんさんばそう)」「操三番叟(あやつりさんばそう)」「奴道成寺(やっこどうじょうじ)」と「吉野山(よしのやま)」「高野物狂(こうやものぐるい)」「橋弁慶(はしべんけい)」などを教わったそうですが、

おじいさんの教え方は独特で、一般的には、教える人の後ろについて振りを習うところ、おじいさんは自分の正面に向かい合うように猿翁さんを座らせ、自ら本番と同じような気持ちで踊り、「感じを盗れ」と、手順や技術より、イキや表現を自分でつかめと教えられたのだそうです。

(また、「操三番叟」で三番叟を踊った時には、「人形振りはおなかがないからフワフワ踊るものだ」と言われただけだったそうです)

「市川猿翁(2代目)は大学3年の時TVドラマ鞍馬天狗で主演を務めるも…」に続く

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