1939年、歌舞伎役者の三代目市川段四郎さんと女優の高杉早苗さんの間に、東京に誕生すると、1943年、4歳の時には、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、湘南・茅ヶ崎に疎開したという、二代目市川猿翁(にだいめ いちかわ えんおう)さんは、終戦後もそのまま茅ヶ崎で暮らし続けたそうですが、1947年1月、7歳の時、東京劇場「寿式三番叟(ことぶきしき さんばそう)」の「附千歳(つけせんざい)」役で三代目市川團子を襲名したそうです。
幼少期は内気な子どもだった
1945年8月15日、猿翁さんは、自宅にあった、レコードのかかる大きなラジオから流れる玉音放送(天皇の肉声の放送)を聞いたそうですが、東京は大空襲で焼け野原となり(歌舞伎座も焼け落ちてしまったそうです)、終戦後もしばらく茅ヶ崎での暮らしが続いたそうです。
そして、茅ヶ崎の小学校に入学すると、慣れるまでお母さんに学校まで送ってもらっていたそうですが、帰ろうとするお母さんの後をしきりに追うような、内気な子どもだったそうです。
また、学校では、「お坊っちゃま」と冷やかしをこめて呼ばれていたそうで、「東京から来た梨園の子」ということで、なかなか友達ができなかったそうです。
小学校時代(戦後)は映画に夢中になっていた
そんな猿翁さんは、戦後、電車で神奈川県・平塚市の映画館に行っては、フランス映画「美女と野獣」などに夢中になったそうで、将来は「映画監督になりたい」と言っていたそうです。
7歳の時に東京劇場「寿式三番叟」の附千歳役で三代目市川團子を襲名
そんな中、猿翁さんは、1947年1月、7歳の時には、三代目市川團子として、東京劇場「寿式三番叟(ことぶきしき さんばそう)」の「附千歳(つけせんざい)」役で初舞台を踏むのですが、
実は、猿翁さんは、栄えある初舞台の「寿式三番叟」出演に際して、踊りの稽古をしたことがなかったそうで、いきなり、祖父・二代目市川猿之助(初代市川猿翁)さんの弟子・猿三郎さんに手順を教えられたそうです。
すると、色の黒い尉殿(じょうどの)をつけ、「御舞い候ぇ」と言いながら、右手に持った中啓(ちゅうけい)という扇で、面をつけた三番叟役のおじいさんを指すシーンでは、隙があったのか、「この手は何だ!」と、空いているほうの左手をピシャリとおじいさんに叩かれたそうです。
ちなみに、当時は、本番のように通して稽古することはなく、ところどころ稽古しておくだけだったそうですが、猿翁さんは、初日も、臆(おく)することなく落ち着いて舞台中央に座ったそうで、その様子を幕の中から見ていたおじいさんは、「ああ、この子は役者になる」と思ったといいます。
(猿翁さんは、茅ヶ崎から毎日1時間余り、養育係の小田さんに連れられて、汽車に揺られながら東京に通っていたそうで、新橋で電車を降り、東銀座の東京劇場までは歩いたそうですが、進駐軍目当てか、テントのような売店がびっしり並んでいたそうで、そんな闇市の雑踏は、子ども心にもワクワクしたそうです)
「市川猿翁(2代目)は幼少期に出番をカットされ激怒していた!」に続く