「東映」から映画「日本の黒幕」の監督をオファーされると快諾し、プロデューサーの日下部五朗さんたちと具体的な話を進めていた、大島渚(おおしま なぎさ)さんは、肝心のストーリーが気に入らず、別のストーリーを提案し、採用されたそうですが、そのストーリーで登場する少年テロリスト役には、まだ当時17歳で、無名だった三上博史さんが、直接、自身を売り込んできたといいます。

「大島渚は当初「日本の黒幕」の製作オファーを快諾していた!」からの続き

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映画「日本の黒幕」のストーリーを変えさせていた

東映映画「日本の黒幕」の監督オファーを引き受けた大島さんですが、プロデューサーの日下部五朗さんたちと具体的な話を進める中、肝心のストーリーが気に入らず、別のストーリーを提案したといいます。

というのも、当初、東映が考えていたのは、フィクサーとその内情を追うジャーナリストのストーリーだったそうですが、大島さんが提案したのは、主人公のフィクサーを、ロッキード事件の中心人物・児玉誉士夫さんをモデルにし、このフィクサーを殺しにきた少年テロリストがフィクサー邸に監禁され、やがて少年はフィクサーのボディガードとなり、最後に、元総理大臣(田中角栄さんがモデル)を殺しに行くというストーリーだったそうで、大島さんのこの案に、脚本家の高田宏治さんも東映も賛同したのだそうです。

脚本家の内藤誠に協力を依頼

こうして、同年6月13日、東映本社で開かれた委員会の席で、大島さんの監督起用が正式に決定し、「日本の黒幕」の製作がスタートすると、

翌日、大島さんは、映画監督の若松孝二さんを励ます会に出席しているのですが、その際、さっそく、同席した脚本家の内藤誠さんに新作映画を手伝って欲しいと依頼したそうで、内藤さんもこれを快諾。

(内藤さんは、東映出身で、脚本家としても映画監督としても数多くの作品を手掛け、協力者としては申し分ない存在だったそうです)

そして、大島さんが東映で新作映画を作るというニュースが、日本中に大々的に報道されると、大島さんは、読売新聞の夕刊(1979年6月16日)のインタビューで、

本当に題名通りのフィクサーを描くのなら、児玉誉士夫とロッキード事件まで視野におさめなければ、やる意味はないと思います。その点、東映も了解したので引き受けることに決めました

と、抱負を語ったのでした。

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当時まだ無名の三上博史が少年テロリスト役に自身を売り込んできていた

すると、この記事が出た直後、「大島渚プロダクション」に一人の少年から電話がかかってきたそうで、たまたま電話に出た大島さんが、

君は誰だ?

と、尋ねると、

その少年は、「三上博史」と名乗り、少年テロリスト役にはぜひ自分を起用してほしいと売り込んできたのだそうです。

実は、この記事には、少年テロリスト役について「新人を起用する予定」と記載されていたそうで、それを読んだ、当時17歳だった三上さんが、すぐに新聞社に電話をすると、記事を担当した記者から「大島渚プロダクション」の電話番号を教えてもらったそうですが、

三上さんは、前年の1978年に、寺山修司さんの監督作品「草迷宮」(公開は1983年)に出演していることを大島さんに告げたそうで、

(この時点ではまだ映画は公開されていなかったため、世間では無名の俳優)

偶然にも、大島さんは、すでに「草迷宮」を観ていて、三上さんに好印象を抱いていたことから、その後、数回の面談を経て、「日本の黒幕」の少年テロリスト役に、三上さんを起用したのだそうです。

「大島渚は「日本の黒幕」で高田宏治の脚本を本人の前で床に叩きつけていた!」に続く

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