幼稚園を辞めた後、歌舞伎役者で14代目守田勘弥さんの二人目の妻・藤間勘紫恵さんに日本舞踏を習いに行くことになると、1956年、6歳の時には、守田勘弥さんの部屋子(内弟子)となり、1957年12月には、「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の寺子屋・小太郎役で初舞台を踏んだ、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんですが、今回は、師匠の守田勘弥さんについてご紹介します。
「坂東玉三郎は7歳で初舞台「菅原伝授手習鑑」も東横ホールだった!」からの続き
師匠(後の養父)の14代目守田勘弥が若い頃は青年歌舞伎で二枚目役者として活躍していた
坂東さんの師匠の14代目守田勘弥さんは、1907年に12代目守田勘弥の四女・みきの子として生まれると、1914年、7歳の時には、4代目坂東玉三郎を襲名して歌舞伎座で初舞台。
1926年、19歳の時には、三代目坂東志うかを襲名し、1932年(25歳)から1938年(31歳)には、新歌舞伎座(新宿第一劇場)の青年歌舞伎で、華やかな二枚目役者として活躍していたのですが、
1939年に青年歌舞伎が解散し、活躍の場を失ったことをきっかけに、実力がありながら大役がつかず、長い不遇の時代を過ごすこととなってしまったそうです。
師匠(後の養父)の14代目守田勘弥は中村歌右衛門も絶賛の芸達者な役者だった
ただ、高い実力は誰もが認める折り紙付きで、中村歌右衛門さんは、後年、守田勘弥さんの写真集に寄せ、
女方もやれば二枚目もやり立役もやる方でただの器用とは違う芸域の広い人だと思います。
おそらく「忠臣蔵」のあらゆる役ができた人で、それが証拠に昭和33年3月の演舞場で「忠臣蔵」の通しが出た時、風邪で次から次に休演の人が出たわけですが、それこそぶっつけで代演して支障がなかった。
「役者だもん、そりゃできなくちゃ」と、ご自分でも自負していらっしゃいました。そういう役者さんでした。
と、勘弥さんを絶賛しています。
(当時の歌舞伎界には、そんな芸達者の人を歌舞伎座や演舞場では主役に起用しないしきたりがあったため、勘弥さんは、由良之助や、判官、勘平などのメインキャストを難なく演じこなせたにもかかわらず、石堂、定九郎、不破などの脇役しか演じさせてもらえなかったのだそうです)
師匠(後の養父)14代目守田勘弥は「仮名手本忠臣蔵」で1週間で7役も演じていた
それでは、ここで、歌右衛門さんも触れていた、勘弥さんが実力を見せつけた、1958年(昭和33年)3月の「忠臣蔵」のあらましをご紹介しましょう。
1958年3月、新橋演舞場で「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」が通しで上演されると、中村勘三郎さんが師直と勘平、松本幸四郎(現・二代目松本白鸚)さんが若狭之助と由良之助、中村歌右衛門さんが判官とお軽、片岡我童さんがかほよ御前とメインキャラクターを演じているのですが、そんな中、勘弥さんは、石堂と定九郎と不破という、脇役担当でした。
ただ、この月、インフルエンザが大流行していたそうで、歌右衛門さんが体調を崩すと、ぎりぎりまで出演するつもりでいるも、開幕15分前になってやはり無理となったそうで、
急遽、勘弥さんが呼ばれ、歌右衛門さんの判官役を務めることとなると、歌右衛門さんのもう一つの役であるお軽役は、勘平役だった勘三郎さんが代わり、その勘平役は勘弥さんが代わったそうですが、
勘弥さんと勘三郎さんは、何の打ち合わせもないぶっつけ本番で臨んだにもかかわらず、卒なくこなしたのだそうです。
(ちなみに、歌右衛門さんは、翌日には回復したそうですが、一度代役を務めると3日間はそのまま代役を務めるのが、歌舞伎界のしきたりだそうで、勘弥さんは3日間、本来の役に加えて判官と勘平を演じたのだそうです)
すると、今度は、松本幸四郎(現・二代目松本白鸚)さんがインフルエンザで倒れたそうで、またもや、急遽、勘弥さんが呼ばれると、幸四郎さんの代役として若狭之助と由良之助を演じたそうで、結局、勘弥さんは、1週間で、なんと合計7役(本来の3役+4役)も演じたのだそうです。
「坂東玉三郎の家系図は?14歳で14代守田勘弥の芸養子に!」に続く