幼稚園に入園するも、たった1日で辞めてしまったという、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんは、踊ることが好きだったため、幼稚園に行く代わりに、日本舞踊を習うことになったそうです。

「坂東玉三郎は幼稚園を1日で辞めていた!その理由とは?」からの続き

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7歳で初舞台

1日で幼稚園を辞めてしまったという坂東さんですが、その代わりに、歌舞伎役者で14代目守田勘弥(もりた かんや)さんの二人目の妻である藤間勘紫恵(ふじまかんしえ)さんのもとで日本舞踏を習うことになったそうで、

(「小児麻痺」の後遺症のリハビリという説もあり)

4歳の時、稽古場で初めて「お月さま」を踊ると、6歳の時には、守田勘弥さんの部屋子(内弟子)となり、1957年12月、7歳の時には、芸名「坂東喜の字(ばんどうきのじ)」として、東横ホールで行われた演目「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の寺子屋・小太郎役で初舞台を踏んだそうで、

坂東さんは、その時のことを、

最初は興行が25日間もあると知らなくて。朝起きて、『今日もまた舞台に出られるの?』って母に聞くと、『今日も出られるよ』。『いつまで?』『幾日まで』。毎日出られることが信じられなくて、嬉しかったです

と、語っています。


「菅原伝授手習鑑」の寺子屋・小太郎役で初舞台を踏む坂東さん(7歳)。

(坂東さんは、6歳の時、初めて、観客として、歌舞伎座で、後に継承することになる、中村歌右衛門さんの「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」の「八ツ橋」を観たそうです)

初舞台が「歌舞伎座」や「新橋演舞場」ではなく「東横ホール」だった理由とは?

ところで、坂東さんが初舞台を踏んだ「東横ホール」は、渋谷の東急東横店の最上階にあった劇場(1976年に「東横劇場」と改称されるも1985年には閉鎖)なのですが、歌舞伎役者にもかかわらず、「歌舞伎座」でも、「新橋演舞場」でもなかったのには、二つの理由があったといいます。

まず、一つ目は、世襲で伝統を継ぐことの多い歌舞伎界において、坂東さんが梨園の出身ではなかったこと。

二つ目は、師である(後に養父となる)守田勘弥(もりた かんや)さんが、二枚目を演じる名優でありながら、歌舞伎界のポジションが、名門出身である中村歌右衛門さん、松本幸四郎(現・二代目松本白鸚)さん、中村勘三郎さんたち(幹部)に比べると、一段低かったからだそうです。

(そのため、仮に、坂東さんが守田勘弥さんの実子だったとしても、「歌舞伎座」で初舞台を踏むことはできなかっただろうと言われています)


坂東さんの師匠・守田勘弥さんは気品のある二枚目だったそうです。

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師匠(後の養父)守田勘弥の歌舞伎界でのポジションは低かった

ちなみに、守田勘弥さんの歌舞伎界でのポジションがどのようなものだったかというと、

坂東さんが初舞台を踏んだ同じ月(1957年12月)の「歌舞伎座」では、久しぶりに「菊五郎劇団」と「吉右衛門劇団」の合同による「顔見世」が華々しく行われたそうで、

11代目市川團十郎(当時は海老蔵)さん、17代目中村勘三郎さん、8代目松本幸四郎さん、7代目尾上梅幸さん、2代目尾上松緑さん、6代目中村歌右衛門さん、17代目市村羽左衛門さん、8代目澤村宗十郎さんと、名優が勢揃いしたそうですが、

勘弥さんは1907年生まれで、團十郎さんや勘三郎さんよりも2歳年上、歌右衛門さんよりも10歳年上であるにもかかわらず、「歌舞伎座」の顔見世には出られず、「東横ホール」で若手の面倒をみさせられていたそうです。

(「顔見世」とは、年に1回行われる、翌年の興行に出演する役者の顔ぶれをそろえて行う行事のことで、観客にこれからの1年間はこの顔ぶれでやりますよと紹介する、とても大事な行事なのだそうです)

「坂東玉三郎の師匠(後の養父)14代守田勘弥は名優も不遇だった!」に続く

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