歌舞伎界を代表する立女形(たておやま)として、「兜軍記」の阿古屋、「籠釣瓶」の八ツ橋、「先代萩」の政岡など、数々の大役を継承すると、世界の名だたる芸術家ともコラボレーション作品を次々と発表するなど、歌舞伎の枠にとらわれない舞台美を追求し続けている、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さん。今回は、そんな坂東さんの知られざる生い立ちについてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

坂東さんは、1950年4月25日生まれ、
東京都の出身、

身長174センチ(公称)、
体重61キロ、

血液型はB型、

学歴は、
巣鴨小学校
⇒聖学院高校中退

趣味は、音楽観賞、映画観賞、オペラ鑑賞、バレエ鑑賞、陶芸、水泳、素潜り、スキューバダイビング、

ちなみに、本名は、「守田伸一(もりた しんいち)」(旧姓・楡原(にれはら))で、通名は「守田親市(もりた しんいち)」です。

幼少期は芸者に囲まれて育つ

坂東さんは、東京・大塚で料亭を営む両親のもと、5人兄弟(もともとお兄さんが6人いたそうですが、そのうち2人は早世したそうです)の末っ子として誕生すると、幼い頃は、料亭に出入りする芸者たちに囲まれて育ったそうです。

(両親はお互い子連れの再婚で、坂東さんはこの夫婦の間の最初で最後の子供だったそうです)


お母さんと坂東さん(2歳)。


お父さんと坂東さん(3歳)。

1歳半の時に小児麻痺を患う

そんな坂東さんは、1歳半の時、小児麻痺を患ったそうで、

1歳半で病院に入った時の、エレベーターの音と色を覚えているんですね。薄いブルーグリーンでした。当時のエレベーターは動き始める時に『トーン』、その後に『ブー』と鳴るから、僕、エレベーターを『トーンブー』と言っていたんです。

病院に入って苦しい思いをしたこと、トーンブーに乗れば外に行けることの印象が深かったんだと思います。それは1カ月半の入院でした。よちよち歩きになってから、お医者さんが家に来てくれて、白い布団の上で治療を受けたのも覚えています

と、医師の治療を受けながら、闘病生活を送っていたそうですが、

右足のアキレス腱に後遺症が残ってしまい、そのせいか、一般的な男の子の様に外で遊び回ることはなく、近所の子供とままごとをするなど、内気な男の子だったそうです。

(自ら進んでお母さん役をやっていたそうで、ほかの男の子たちからは、「女、女」とからかわれたそうですが、意に介さなかったそうです)

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幼少期から踊ることが好きだった

一方、両親が営む料亭に出入りする芸者たちにかわいがられていたことから、その真似をして三味線に合わせて踊っていたそうで、

(芸者が身に付けている着物や帽子を親にねだるほどだったそうです)

3歳の頃には、毎朝、起きる時間にお父さんがかけてくれる邦楽のレコードを聴きながら起き、お母さんの羽織や風呂敷を巻いて踊っていたそうで、

坂東さんは、

音楽がかかると、体が動いちゃう子どもだったんです。それで両親が、踊りのお稽古をするといいだろうと導いてくれた。そのまま好きなことをやって、今日までこられたということだと思います。

『役者になりたいと思ってなったんじゃない』と言うと不遜ですけど、何かずるずると来てしまった、という感じがあるんですね

と、語っています。

「坂東玉三郎は幼稚園を1日で辞めていた!その理由とは?」に続く

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