1967年、国立劇場で上演された「桜姫東文章」の冒頭部分で、白菊丸登場シーンを演じると、作家の三島由紀夫さんや澁澤龍彦さんをも魅了したという、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんですが、三島さんは、かつて、自身が監修した「桜姫東文章」が失敗に終わった理由を、この時の坂東さんの登場シーンを見て、ようやく理解できたといいます。
「坂東玉三郎は「桜姫東文章」の白菊丸役で澁澤龍彦も魅了していた!」からの続き
三島由紀夫はかつて「桜姫東文章」を監修するも失敗に終わっていた
この「桜姫東文章」(鶴屋南北 作)は、清玄という僧が白菊丸という美少年と禁断の恋に落ち、心中するのですが、白菊丸は死ぬも清玄は死にきれず、17年後、出会った桜姫が白菊丸の生まれ変わりだと知る、という物語で、1817年(文化14年)に初演されると好評を博すのですが、
その後は上演が途絶え、1927年(昭和2年)と1930年(昭和5年)に復活上演されたものの、それきりとなっており、それを、三島由紀夫さんが、1959年と1960年に、中村歌右衛門さんの桜姫で復活上演するのですが、いずれも失敗に終わっていたそうです。
(以降、歌右衛門さんが桜姫を演じることはありませんでした)
三島由紀夫は自身の「桜姫東文章」が失敗した理由を長年分からなかった
また、当時、三島由紀夫さん・中村歌右衛門さんのコンビによる「桜姫東文章」が失敗した原因は、
- 桜姫という役柄が歌右衛門さんには向いていなかった
- そもそも、桜姫に歌右衛門さんを起用した三島さんの失敗だった(ミスキャスト)
- 通しで上演させなかった歌舞伎座の失敗だった
- 原作者の鶴屋南北ブームが起こるのは1970年代になってからであり、1959年の上演には、まだ時代が追いついていなかった
などと言われていたそうですが、
三島さんにとっても、歌右衛門さんにとっても、納得のいく理由ではなかったそうです。
(三島さんにとって歌右衛門さんは、「最愛の女優」と称される存在で、三島さんは、歌右衛門さんに、歌舞伎だけでも5作もお芝居を書いており、そんな二人が古典の復活上演と挑んだ「桜姫東文章」は、本来なら二人にとっての代表作にならなければならないほど気合の入った作品だったそうです)
三島由紀夫は坂東玉三郎を見て初めて自身の「桜姫東文章」が失敗した原因に気づかされていた
それが、この1967年3月の国立劇場の復活上演での、坂東さん演じる白菊丸を見て、三島さんは、なぜ、自身の「桜姫東文章」が失敗したのか、7年の時を経て、ようやく分かったのだそうです。
というのも、「桜姫東文章」は、原作通りに上演すると全体で10時間近くもかかってしまう大作だったため、三島さんの「桜姫東文章」(1959、1960年上演)は、3時間たらずにまとめたものが上演され、冒頭の白菊丸の登場シーンはカットされていたそうですが、
今回は、全幕通しでの上演が1817年の初演以来、実に150年ぶりに行われたそうで、三島さんは、坂東さんの鮮烈な登場により、この時初めて、このシーンの重要性を理解したのだそうです。
(三島さんは、国立劇場ヴァージョンの「桜姫東文章」には直接の関与はしていませんでしたが、プログラムに「南北的世界」と題する文章を寄せるなど、「桜姫東文章」は思い入れのある作品だったそうで、自身が監修した歌右衛門さんの歌舞伎座ヴァージョンよりも、この国立劇場ヴァージョンの方が優れていると認めていたそうです)
演劇評論家の堂本正樹も白菊丸の登場シーンを高く評価していた
ちなみに、三島さんの友人の劇作家で演出家・演劇評論家の堂本正樹さんも、自著「男色演劇史」で、
同性愛の執念が、死して猶女に生れ替り、相手の男を破滅させる傑作
発端の江の島児ケ淵の場は、長く上演を絶っていたが、昭和四十二年三月、国立劇場で勘彌・玉三郎のコンビで陽の目を見た
と、この作品における、白菊丸登場シーンが重要だったことを指摘し、その部分をカットせずに上演した1967年の復活上演を高く評価しています。