作家になるべく、母親の反対を押し切り、早稲田大学第2文学部に入学すると、昼間、「交通公社」で働きながら、せっせと小説を書いていたという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、文学賞はおろか、同人誌でも褒められることはなく、挙げ句の果てには、先輩から、文才がないことを度々指摘され、落ち込んでいったといいます。

「田原総一朗は不正使用できる定期券をもらい異動させられていた!」からの続き

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早稲田大学の講義には真面目に出席していなかった

昼間働きながら、夜学に通うべく、早稲田大学第2文学部に入学した田原さんですが、早稲田大学には、作家になるため、便宜上、入っただけで、もともと、講義には真面目に出席する気などなく、小説の執筆に集中しようとしていたそうです。

(講義には、気が向いた時に、ふらりと出かける程度だったそうです)

ただ、昼間働いていた事から、執筆するのは、もっぱら休日や深夜で、学校をサボって原稿を書くこともあったそうです。

早稲田大学の同人誌「早稲田文学」はレベルが高過ぎて参加しなかった

また、早稲田大学第2文学部に入った主な目的は、同人誌に加わることだったそうで、3つほど、同人誌をはしごしたそうですが、

早稲田の有名な同人誌「早稲田文学」は、レベルが高すぎて、参加しようという気も起きず、早稲田出身の作家・丹羽文雄を研究している同人誌「十五日会」にも一度だけ参加したことがあったそうですが、ここも、田原さんにとっては、雲の上の存在で、それきり参加する気になれず、その子会社的な同人誌に所属して作品を発表したそうです。

文学賞に応募するも箸にも棒にもかからなかった

そんな田原さんは、文学賞を取って作家デビューし、大学を中退するつもりでいたそうですが、

(第2文学部時代、20作くらい書いたそうです)

現実には、出版社が主催する文学賞に3回ほど応募するも箸にも棒にもかからず、どの同人誌でも褒められたことがなかったそうです。

(実体験が乏しかったことから、作品にリアリティがなく、特に、男女の関係については、書きたくても体験がないことから書けず、どうしても、くだらない題材で書くしかなかったそうです)

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同人誌の先輩から何度も文才がないと言われ自信をなくしていった

そして、ある時には、同人誌の先輩から、

君は必死になって書いているんだと思う。でも、努力というのは、文才のある人間が一生懸命やることを言うので あって、君のような文才のない人間が一生懸命やるのは努力とは言わない。それは努力ではなくて、徒労と言うんだ

とまで、言われ、

その後も、同じようことを2~3度言われそうで、

だんだん落ち込み、小説はダメかもしれないと思い始めたそうです。

「田原総一朗は「太陽の季節」「死者の奢り」を読み作家を断念していた!」に続く

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