「交通公社」では、切符売り場でミスを連発したせいか、入社1年で、定期券係に異動させられたという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、ここでも、書き損じた(不正使用できる)定期券をもらい、またしても、別の部署に異動させられたといいます。
「田原総一朗が若い頃は「交通公社」入社も1年で異動させられていた!」からの続き
定期券係の仕事場は窓のない倉庫のような部屋だった
田原さんが異動させられた定期券係の仕事場は、最初に配属された案内所と同じ丸ビルの中にあったそうですが、窓のない倉庫のような部屋だったそうで、そこで、東京駅周辺にある企業から依頼を受け、定期券を作って自転車で配達するのが主な仕事だったそうです。
(一番の得意先は東京都庁で、作る定期券の数も1000人単位と膨大だったそうです)
書き損じ(不正使用できる)の定期券をもらい異動させられる
そんな田原さんは、この頃、昼間は、交通公社で働き、夜は早稲田大学に通っていたため、仕事が終わると、国電で東京駅から飯田橋駅まで行き、都電に乗り換えて飯田橋から早稲田まで行っていたそうで、
ある日、定期券係の社員の一人が、
君は夜学に通っていて苦しいだろうから、この定期券を使えよ
と、言い、書き損じた定期券をくれたそうですが・・・
(3ヶ月分の定期券をお客さんに出す際に、書き損じたものは「廃札」となるそうですが、整理するのに時間がかかるために1ヶ月半ぐらい事務所に放置されており、その定期券を使って、国電も都電もタダで乗ることができたそうです)
田原さんの座席のすぐ後ろにいた売り場の責任者が、田原さんたちの会話を聞いていて、「何をやっているんだ」と詰問してきたそうで、
田原さんが仕方なく正直に説明すると、ボロクソに怒られ、クビにこそならなかったものの、またもや異動させられてしまったのだそうです。
使えない社員のたまり場に回される
こうして、異動させられた場所はというと、東京駅丸の内北口の入り口にあった案内所で、駅の案内や旅館の手配をするのが仕事だったそうですが、取り扱い額も少なく、使えない社員が配属される場所だったそうです。
ちなみに、ここには、進駐軍の兵士が数多くやって来たことから、戦争で親を亡くした戦災孤児(小・中学生)たちが、その兵士を目当てに、靴磨きをするため毎日やって来ては、
進駐軍の兵士を乗せた列車は何時に着くのか
と、聞いてきたそうです。
(戦災孤児たちは、東京駅周辺で靴磨きをしていたそうで、いつも、だいたい12~13人ほどいたそうですが、田原さんには、子供たちが夜、どこで寝ているのかは分からなかったそうです)
娼婦たち目当てに旅館が売り込みに来ていた
また、夜になると、「パンパン」と呼ばれる娼婦たちが東京駅の近辺に現れたそうですが、
(髪には派手なパーマをかけ、スケスケのナイロンのブラウスを着て、幅の広いエナメルのベルトを締めており、一目で、それと分かる格好だったそうです)
それを目当てにしていた旅館の人が、
(案内所では旅館の手配もしていた)
お客が来たら、うちに寄こしてほしい
と、手土産にお菓子を持って売り込みに来たそうで、その、もらった菓子折りを上司に渡し、みんなでよく食べたそうです。
ワイロを正直に上司に報告するも激怒されていた
すると、そんなある日のこと、旅館の人に、菓子折りと一緒に封筒を渡されたことがあったそうで、お金が入っていることが分かったことから、断ろうとしたそうですが、「いや、どうぞ。どうぞ」と、強引に渡されたそうで、新人だった田原さんは、上司に、「こんなものをもらいました」と、正直に報告したそうですが、
上司からは、
なんだ、おまえ。これは賄賂(ワイロ)だぞ。最高学府に行きながら、そんな分別もできないのか。こんなもの、もらっちゃダメだろう
と、(正直に報告したにもかかわらず)ものすごく怒られたのだそうです。
ただ、その上司は、後に、
あの時、君のことを怒ったけれど、ほかの連中はみんなコッソリと自分の懐に入れているんだ。君は正直に出したけれど、ほかの連中は出しもしないのさ
と、苦笑いしながら言ったことがあったそうで、
田原さんは、著書「塀の上を走れ 田原総一朗自伝」で、
私は取材で政治家と付き合うようになってから、一度も金を受け取ったことがない。その原点に、この時の体験があったかもしれない。
と、綴っています。
「田原総一朗は文学賞に応募するも箸にも棒にもかからなかった!」に続く