終戦後、疎開先の岡山から東京に戻り、中高一貫の男子校・麻布中学校に進学すると、麻布中学校は演劇が盛んだったため、たちまち演劇に興味を持つようになり、演劇部の手伝いをしつつ、言論部で創作活動を開始していた、倉本聰(くらもと そう)さんですが、お母さんのたっての願いである、東京大学を受験されます。

「倉本聰は中学生の頃から創作活動を始めていた!」からの続き

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高校2年生の時に父親が他界

麻布中学校に入り、演劇(創作活動)に夢中になっていた倉本さんですが、そんな中、お父さんは、出版業を再開されるも経営はうまくいかず、さらには、おじいさんが遺してくれた国債も敗戦で紙くず同然となり、生活は苦しかったそうです。

(お父さんは、1944年(昭和19年)おじいさんから引き継いだ出版社「日新医学社」を他人に譲り、戦後、東京で、自然科学系の出版社を新たに立ち上げられたそうですが、自然科学系の本は売れなかったそうです。)

そして、倉本さんが高校2年生のある日のこと、家族みんなで賛美歌を歌い終わると、突然、お父さんが、「あー、来た来た来た」とつぶいやいて苦しみ出したそうで、

倉本さんは、医師の叔父さんに命じられて、お父さんの胸の上に乗って、「父さん、父さん!」と、必死に叫びながら心臓マッサージをされたそうですが・・・お父さんは、そのまま息を引き取ったのだそうです。

高校時代は映画や芝居に夢中になる

そんなことがありながらも、倉本さんは、校内誌の編集、音楽と読書、演劇部の手伝い、と、高校生活を満喫されたそうで、特に、戦後、欧米の映画がどっと日本で公開されたことから、映画に夢中になり、映画館通いするほか(最初にハマったのはフランス映画だったそうです)、アルバイトをしては、お芝居を観るため、小劇場にも通われたそうで、

倉本さんが高校生だった1952年には、「第三の男」「陽(ひ)のあたる場所」「天井桟敷の人々」「巴里(パリ)の空の下セーヌは流れる」「肉体の悪魔」など、たくさんの映画を観たそうです。

また、映画館では、フランス語や英語のシナリオに日本語訳をつけた冊子が売っていたそうですが、その冊子には、「ここで音楽」「クローズアップ」などと書いてあったそうで、脚本や作劇術を学びたかった倉本さんは、お小遣いをやりくりして買ったのだそうです。

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2浪の末に東京大学に合格

そんな倉本さんも、大学受験の時期を迎えると、(普段は優しいながら)教育ママだったお母さんのたっての願いで、東京大学・文科三類(文学部)を受験されるのですが、不合格。

(倉本さんとしては、理数系がさっぱりだったこともあり、まったく東京大学へのこだわりはなかったのですが、お父さんの前妻の息子(倉本さんの腹違いの兄)が東京大学へ行っていたことから、お母さんが対抗意識を持ち、どうしても倉本さんを東京大学へ行かせたいのだと感じ、仕方なく受験したそうです。)

そして、倉本さんは、1浪して、再び東京大学を受験するのですが、映画や演劇への熱が増す中、受験勉強にまるで身が入らなかったことから、またしても不合格となってしまったそうで、2浪に突入。

ただ、現役の時も1浪の時も東京大学しか受けなかったことから、3度目の受験ではさすがに滑り止めとして慶應義塾大学を受験したそうですが・・・こちらも不合格。

それでも、なんとか、国際基督教大学・文学部に補欠で合格したそうで、倉本さんは、自宅(善福寺)から近い、東京・三鷹市にある、緑豊かなキャンパスの国際基督教大学がとても気に入り、通う気満々だったそうですが・・・

なんと、東京大学・文科三類にも合格し、ついに東京大学に入学されたのでした。

「倉本聰は昔「劇団四季」を不合格になり「劇団仲間」に入部していた!」に続く

東京大学入学時の倉本さん(左端)と学生演劇の仲間たち。

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