都内ながら野鳥のさえずりが聞こえる善福寺の豊かな自然の中、学校の勉強のことはとやかく言わず、野山で遊ぶことを良しとするお父さんの教育方針のもと、自由にのびのびと育った、倉本聰(くらもと そう)さんですが、やがて、戦争ムードが色濃くなると、山形県に学童集団疎開することになります。

「倉本聰の幼少期は裕福な家庭で俳人の父親の元のびのびと育っていた!」からの続き

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山形県に学童集団疎開

優しい両親のもと、何不自由なくぬくぬくと育った倉本さんですが、戦争が始まると、政府の方針で山形県上山市に学童集団疎開することになったそうで、都会の恵まれた環境で育った倉本さんにとって、食べ物もろくにない疎開生活はとても厳しいものだったそうです。

実際、倉本さんは、東京に帰りたいと、何度も仮病を使ったそうですが、先生たちは、そんな子どもの下心を見透かし、まともには取り合ってくれなかったそうです。

(倉本さんだけでなく、多くの子どもたちが、ホームシックや餓えに耐えられず、脱走を試みるほか、仮病を使って、東京に帰ることを目論んだそうです。)

仮病が成功し縁故疎開で単身帰京が叶う

そんな中、秋が深まる頃、倉本さんは、本当に微熱が出て下がらなくなってしまい、近くの診療所で診てもらうも原因ははっきりしなかったそうですが、やはり、微熱くらいでは東京へ帰ることは許されなかったそうです。

(当時、郵便は検閲されていたそうですが、日本が不利な情勢にあることは漏れ伝わっていたほか、東京の空襲は激しさを増すばかりだったことから、先生たちとしては、子どもたちを東京に帰す訳にはいかなかったのでした)

しかし、その後、(倉本さんいわく)仮病が成功して縁故疎開が決まり、1944年の暮れには、念願叶って東京に戻ったそうで、級友たちには申し訳ない気持ちになりつつも、弾むような足取りで、東京へ向かう列車に乗ったのだそうです。

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東京大空襲から生き残る

ただ、東京はというと、戦争一色だったそうで、特に三鷹には中島飛行機の工場があったため、爆撃に向かう「B29」が倉本さんたちが住む善福寺の家の上をよく飛んでいたそうで、

倉本さんが屋根の上に登っては、おもちゃの鉄砲で「B29」を狙い打っていると、お父さんに引きずり降ろされて防空壕に入れられたそうですが、

ついに、1945年3月10日午前0時直後には、約300機もの「B29」が東京の下町に爆撃を開始し(東京大空襲)、3月10日の未明まで空襲が続くと、一晩で東京の約3分の1が焼き払われ、死者10万人、負傷者100万人という、かつてない最悪の空襲となり、倉本さんは、そんな空襲の被害を受けた下町の方向の夜空が赤く染まるのを見たのでした。

(米軍は、風の強い日を見計らい、木造家屋が密集する東京・下町一帯に焼夷(しょうい)弾を投下し、民家を焼き尽くそうとしたと言われています。)

その後、同年4月、倉本さんら家族は、(勤労動員で東京に残ったお兄さんとお姉さんを除き)父方の本家がある岡山県金光町(現在の浅口市)に、1年間、疎開されたそうで、ようやく終戦を迎えたのでした。

(米軍による東京への大規模な空襲は、その後も、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日~26日と行われたのですが、小規模な空襲も含めると、東京は1944年11月24日以降、106回もの空襲を受けたのだそうです)

「倉本聰は中学生の頃から創作活動を始めていた!」に続く

(左から)お父さん、お姉さん、お兄さん、おばあちゃん、お母さんと弟さん、妹さん、倉本さん。

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