作家デビューするため、早稲田大学第2文学部に入り、昼間、「交通公社」で働きながら、出版社が主催する文学賞受賞を目指し、小説の執筆に打ち込むも、受賞はおろか、度々、同人誌の先輩から才能がないことを指摘され、自信をなくしていったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんは、石原慎太郎氏の「太陽の季節」と大江健三郎氏の「死者の奢り」を読み、ついに、作家になることを断念したといいます。

「田原総一朗は文学賞に応募するも箸にも棒にもかからなかった!」からの続き

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石原慎太郎の「太陽の季節」を読んで衝撃を受ける

早稲田大学では、出版社が主催する文学賞受賞を目指して小説の執筆に打ち込むも、文学賞には箸にも棒にもかからず、同人誌内でさえ褒められることがなく、挙げ句の果てには、度々、同人誌の先輩から才能がないと指摘され、だんだん、落ち込んでいったという田原さんですが、

そんな中、上京して2年目の頃、石原慎太郎氏の「太陽の季節」を読み、衝撃を受けたことがあったといいます。

それは、田原さんが、「交通公社」の定期係で配達をしていて、「日本経済新聞」に近い、兜町の小さな本屋の前を通りかかった際、

短冊に、

石原慎太郎 太陽の季節 文學界新人賞

と、書いてあるのが目に留まったことから、この「太陽の季節」を立ち読みしたそうですが・・・

あっという間に作品の世界にのめり込み、一気に読んでしまったそうで、

田原さんは、この時、

これは敵わない

と、思ったのだそうです。


太陽の季節

「太陽の季節」は実話に基づき生々しく書かれていた

というのも、田原さんは、これまで、恋愛の経験をしたことがなく、丹羽文雄氏や石川達三氏ら当時の流行作家の作品を写経のように書き写し、その文章をなぞって、知りもしない、男女の愛のもつれのようなものを書くに過ぎなかったそうですが、

一方、石原慎太郎氏はというと、実話に基づいて、生々しく書いており、

(しかも、田原さんが「昔」を書いているのに対し、石原氏は「今」を書いていたそうです)

これはダメだ、全く敵わない

と、思ったのだそうです。

(この「太陽の季節」は、翌年の1955年に芥川賞を受賞)

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大江健三郎氏「死者の奢り」にも衝撃を受け作家になる夢を断念していた

また、同時期には、大江健三郎氏の「死者の奢り」にも衝撃を受け、敵わないと思ったそうで、田原さんは、この2つの作品が決定打となって、自分に才能がないことを思い知り、作家になろうという夢を断念したのだそうです。

ちなみに、この「死者の奢り」は、翻訳文のような調子で書かれていて、今でこそ、ありふれた文体の一つで、珍しくないそうですが、当時としては、斬新で、小説の概念を根底から覆すような強烈な作品だったそうです。

「田原総一朗はジャーナリストを目指し早大第1文学部に入り直していた!」に続く


死者の奢り

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