石原慎太郎氏の「太陽の季節」と大江健三郎氏の「死者の奢り」の2作品を読んで衝撃を受け、作家になる夢を断念したという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんは、その後、ジャーナリストを目指し、早稲田大学第1文学部に入り直す決心をしたといいます。

「田原総一朗は「太陽の季節」「死者の奢り」を読み作家を断念していた!」からの続き

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作家になる夢を断念しジャーナリストを目指す

作家になるべく、早稲田大学第2文学部に入り、昼間、「交通公社」で働きながら、文学賞受賞を目指して、せっせと小説を執筆するも、文学賞受賞はおろか、度々、先輩に文才がないと指摘され、

そんな中、石原慎太郎氏の「太陽の季節」と大江健三郎氏の「死者の奢り」の2作品を読んで、ついに、作家になる夢を断念したという田原さんですが、

今後のことを考えた時、最初に頭に浮かんだのがジャーナリストだったそうで、ジャーナリストになるためには、大学を卒業し、新聞社かテレビ局に入らなければならないと思ったそうです。

早稲田大学第1文学部を受け直すことを決意

ただ、田原さんは、入学した早稲田大学第2文学部では、(小説の執筆に熱中していたため)ほとんど単位を取っておらず、学費も収めていなかったことから、

(除籍にならないのが不思議なほどだったそうです)

大学3年生の時、あらためて、早稲田大学第1文学部を受け直すことにしたそうで、

(マスコミ志望の学生が集まる政治経済学部もあったそうですが、文学への想いが捨てきれず、第1文学部を志望したそうです)

受験勉強をするため、その時、勤めていた「交通公社」をすぐに辞めようと思ったそうですが、会社が認めてくれず、12月のクリスマスパーティーまでは出社するよう命じられたそうで、1955年12月末、「交通公社」を退職したのだそうです。

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精神的に追い詰められた状態の中で早稲田大学第1文学部を受験していた

こうして、翌年1956年3月初め、早稲田大学第1文学部を受験すると、田原さんは見事合格したそうですが、

実は、

入学試験に落ちたら死のう

と、思うほど、精神的に追い詰められた状態の中で、受験勉強をしていたのだそうです。

というのも、せっかく、大企業である天下の「交通公社」に入ったのに、そこを辞めて、大学に行き直すということに、母親が激怒するのは明白で、そのため、親には、このことを内緒にし、いっさい報告していなかったそうですが、一方、下宿先である伯母さんたちには伝えていたものの、伯母さんもその家族からも全員から反対されていたそうで、

(田原さんは、上京後、伯母さんの家に下宿させてもらっていたそうです)

そんな中、伯母さんたちには、「絶対、受かるから」と虚勢を張っていたそうで、これで試験に落ちたら、もう誰にも合わせる顔がなかったのだそうです。

(母親には、大学合格と交通公社退職を、恐る恐る手紙で知らせたそうですが、母親からの返信は、案の定、大企業を辞めて大学に入り直したことへの怒りがつらつらと書かれてあり、おまけに涙がポタポタと落ちた跡まで便箋に残されていたそうで、田原さんは申し訳ない気持ちで胸が痛んだそうです)

「田原総一朗はマスコミ関係の就職試験でことごとく不合格だった!」に続く

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