ついに、1945年8月15日(小学5年生の夏休み)、玉音放送により終戦を聞かされた、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、実は、その直後は、絶望的な気持ちになっていたといいます。

「田原総一朗の叔父は軍隊で壮絶なリンチを受け発狂したまま他界していた!」からの続き

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小学5年生の時、玉音放送を聞いて終戦を知る

敗戦の色が濃くなってくると、彦根でも玉砕するかどうかが話題になっていたそうですが、そんな中、1945年8月15日(小学5年生の夏休み)、田原さんは、自宅のラジオから流れる玉音放送(天皇の肉声の放送)を聞いたそうです。

(昭和天皇直々の御言葉があると聞き、昼前から、近所の大人たち5~6人が、ラジオのある田原さんの自宅に集まって来ていたそうです)

ただ、

耐ヘ難キヲ耐ヘ、忍ビ難キヲ忍ビ

敵ハ残虐ナル爆弾ヲ使用シ

という言葉は、小学5年生の田原さんでも聞き取ることができたそうですが、雑音が多くて、よくは聞き取れなかったそうです。

一方、大人たちはというと、放送が終わった後、天皇の御言葉の解釈をめぐって議論を始めたそうで、戦争は続くのでは、という意見と、戦争が終わったのではないか、という正反対の意見が出たそうです。

敗戦を知り絶望的な気持ちになっていた

しかし、午後になると、彦根市役所の職員が、市内を巡回して、戦争が終わったことをメガホンで言って回ったそうで、これで、田原さんは、日本が負け、戦争が本当に終わったのだと理解したのだそうです。

ただ、田原さんは、

これで海兵(海軍兵学校) にも行けなくなった。お先真っ暗だ

と、絶望的な気持ちになったのだそうです。

というのも、田原さんは、海兵に行って軍人になるのが夢で、どのように華々しく死ぬか、死に方ばかり考え、海軍の特攻隊員として戦闘機に乗り、戦艦から飛び立ち、敵の軍艦にぶつかって死ぬことを夢見ていたからなのですが、

敗戦により、その夢は叶わなくなり、田原さんは、おばあちゃんが暮らしていた離れの2階へ行って、泣きに泣き、そのうち泣き疲れ、いつの間にか、寝入ってしまったのだそうです。

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彦根市街に輝く灯りを見て戦争が終わった解放感に浸る

ただ、ふと目が覚めると、夜になっていて、部屋の中は真っ暗になっていたそうで、その後、離れから母屋に帰り、2階の窓から部屋の外を見ると、彦根の市街が異様なほど明るかったそうで、

前の夜までは、灯火管制や家の電灯にも布がかけられ、灯りが漏れないようにしていたのが、今は、その真っ暗だった町が煌々と明るく、

田原さんは、それを見た瞬間、

明るいっていうのは、こんなにいいことなんだ

ああ、戦争は終わったんだ。もう死ななくていいんだ

と、すっかり絶望感を忘れ、言いようのない解放感に浸ったのだそうです。

「田原総一朗は敗戦後「天皇制」に疑問を持つようになっていた!」に続く

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