1944年夏頃、薄々、戦争には勝てないのではと感じ始めた矢先、住んでいた彦根も空襲を受けるなど、危険な状態を肌で感じるようになっていったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、この戦争で、何人かの親戚が悲惨な末路をたどったといいます。

「田原総一朗は海兵になって20歳で死ぬつもりだった!」からの続き

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陸軍に入隊した従兄弟はルソン島で戦死

一人は、従兄弟で、陸軍の工兵中尉だったそうですが、戦地に赴く前に、田原さんの住む彦根にやって来ると、

(すでに死を覚悟していたようで)芹川の沿岸でいきなり軍刀を抜き、桜並木の桜の枝をバサッと切り落としたそうで、

田原さんは、

何も桜の木を切らなくてもいいのに乱暴だなあ。嫌だなあ

と、思ったそうですが、

その一方で、

ああ、そうか。これから死ぬのか。大変なんだなあ

とも思い、何とも言えない気分になったそうです。

そして、しばらくして、その従兄弟が戦地に赴くために乗った汽車が東海道線の米原駅で停まる時に、田原さんがお父さんと共にお酒を持って会いに行くと、その従兄弟は、田原さんとお父さんの目の前で、そのお酒を一気に飲み干したそうですが、その従兄弟は、その後、フィリピンのルソン島で戦死したのだそうです。

海軍に入隊した従兄弟は乗っていた船が機雷に攻撃され戦死

もう一人も、同じく従兄弟だったそうですが(前述の陸軍の工兵中尉よりも年下)、この従兄弟は、海兵を卒業後、海軍に入隊すると、戦艦大和の乗組員になっていたそうですが、ある日のこと、艦長が、「一人っ子は前に出ろ」と言って、一人っ子を集めたことがあったそうで、従兄弟には兄がいたのですが、すでに戦死しており、一人っ子となっていたことから、前に出たそうです。

すると、艦長は、「おまえらはみな船を降りろ」と命じたそうで、何人かは「嫌です」と言って抵抗したものの、結局、一人っ子はみんな船を降ろされたのだそうです。

しかし、結局、この従兄弟は、東北の沖合で、乗っていた船が機雷に攻撃され、亡くなったのだそうです。

(日本周辺の海は機雷だらけだったそうです)

ちなみに、戦艦大和はというと、沖縄に向かったものの、護衛艦も艦載機もない状態での出撃(自爆行為)だったそうで、アメリカ軍の機動部隊の猛攻撃を受け、沈没したそうです。

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叔父は軍隊で壮絶なリンチを受け脳や精神状態がおかしくなったまま死去

そして、もう一人は、叔父さん(お母さんの弟)だったそうですが、叔父さんは陸軍の二等兵だったそうですが、軍隊で、殴る蹴るの壮絶なリンチを受けていたそうで、生還したものの、ある日のこと、自転車に乗っている時、突然、意識を失い、川に転落。

近所の人が知らせてくれたため、田原さんたち身内が飛んで行って、叔父さんを連れて帰り、介抱したそうですが、その後も、同じようなことが起こったそうで、最初は何が起きたのか分からなかったそうですが、ほどなくして、癲癇(てんかん)の発作だと分かったそうです。

そんな叔父さんは、最後は、精神状態がおかしくなって入院したそうで、お母さんがお見舞いに行った際には、直立不動で敬礼し、自分に「休め」と号令をかけてから話し始めたそうですが、結局、叔父さんは、30年間入院したまま、退院できることなく、病院で亡くなったのだそうです。

「田原総一朗は少年時代「終戦」に一瞬絶望していた!」に続く

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