軍国教育を受けていたこともあり、死ぬことへの恐怖はまったくなく、海兵へ行って20歳で死ぬと心に決めていたという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんですが、やがては、日本が戦争に勝てないことを薄々感じるようになっていったといいます。

「田原総一朗が戦時中に体験した今でも忘れられない出来事とは?」からの続き

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海兵になって20歳で死ぬつもりだった

戦時中は、幾度となく、忘れられない体験をしたという田原さんですが、小学校卒業後は、軍国教育を受けていたこともあり、海兵に入ることが決まった従兄弟への憧れから、

自分は海兵へ行って、20歳で死ぬんだ

と、心に決めていたそうで、死ぬことへの恐怖はまったくなかったそうです。

(海兵に入ることが決まった従兄弟が彦根に来たことがあったそうですが、その短剣を差した姿が抜群に格好良かったことや、海軍は、陸軍のように長い距離を歩く必要がなく、行軍中に鉄砲の弾に当たって死ぬことがないのが、海軍に入ろうと思った理由だったそうです)

戦争に勝てないことを薄々感じるようになっていった

しかし、1944年の夏頃から、横浜や大阪に住んでいた父方の親戚4世帯が田原家に疎開してくると、

横浜から疎開してきた親戚が、

空襲で亡くなった人の遺体を踏み分けて来た

と、話しているのを聞いたそうで、

子供心にも「大変なことになった」と思い、この頃あたりから、「戦争には勝てない」と思うようになったそうで、

友達と芹川の川辺に行くたびに、

川が涸れたら、たぶん負けるね

いつ涸れるかなあ

まだ、流れてるね

と、話すようになったそうです。

(近くを流れていた芹川は、毎年夏になると水量が減って涸れていたことから)

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彦根も空襲を受けていた

そんな中、やがて、名古屋や三重県四日市でも空襲が始まり、田原さんが住む彦根も、毎晩のように米戦略爆撃機「B29」が上空を飛ぶようになると、

(田原さんは、お母さんの実家がある正法寺に疎開していたこともあったそうです)

翌年の1945年(小学校5年生の時)には、ついに、彦根も空襲を受け、近所に爆弾が2発落ちて炸裂し、爆音が響き渡ったそうです。

ただ、実は、この彦根の空襲、「B29」が名古屋あたりで落とし損ねた爆弾を、そのまま持ち帰るのが面倒くさいという理由から落としていったものだったそうですが、

同様の理由で、近江鉄道のあたりを戦闘機が面白半分で機銃掃射したこともあったそうで、田原さんの自宅の前を、死者や負傷者が大勢運ばれて行ったこともあったそうです。

(※機銃掃射とは、機関銃で敵を薙(な)ぎ倒すように上から下に向けて射撃することで、特に戦闘機が地上の人間や建物に向かって機銃で射撃すること)

「田原総一朗の叔父は軍隊で壮絶なリンチを受け発狂したまま他界していた!」に続く

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