1957年、7歳の時、14代目守田勘弥さんの弟子となった、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんは、その後、才能を認められ、1964年、14歳の時には、5代目坂東玉三郎を襲名し、守田勘弥さんの芸養子となります。

「坂東玉三郎の師匠(後の養父)14代守田勘弥は名優も不遇だった!」からの続き

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子役として舞台に次々と出演

14代目守田勘弥さんの弟子として歌舞伎役者となった坂東さんは、

1958年4月「佐倉義民伝」(娘おとら役)
     7月「曽我の春駒」(化粧坂の少将役)
     9月「沓掛時次郎」(太郎吉役)
     10月「土蜘」(名神役)
     12月「恋飛脚大和往来」(遠見の梅川役)

1959年2月「白浪五人男」(赤星十三郎)
     4月「隅田川続俤~法界坊」(丁稚長太)
     6月「良寛と子守」(子供)
     8月「佐倉義民伝」(娘おとら役)
     9月「江戸絵両国八景」(卯の吉)
     12月「奥州安達原」(娘お君)
       「芝浜の革財布」(娘)

など、勘弥さんの出演する舞台に子役として立て続けに出演したそうです。

14代目守田勘弥の芸養子となる

すると、1964年6月、14歳の時には、その才能を認められ、歌舞伎座にて「心中刃は氷の朔日」のおたま役で、5代目坂東玉三郎を襲名。勘弥さんの芸養子となるのですが・・・

襲名といっても、「玉三郎襲名披露公演」などと銘打たれる訳でもなく、役者たちが並んでの襲名の口上などもなく、ひっそりとしたお披露目だったそうです。

(ちなみに、勘弥さんには、坂東さんのほかにもう一人、坂東さんと同年の部屋子がおり、この部屋子も坂東さんと同じ月に芸養子となり、「坂東志うか」を襲名しているのですが、この月の歌舞伎座は、勘弥さんの養父である13代目守田勘弥の三十三回忌追善供養だったため、勘弥さんは、二人の「養子披露」という無理を聞いてもらったのだそうです)

芸養子となってから6年間は稽古づくめの日々だった

さておき、勘弥さんの芸養子となった坂東さんは、

その際、勘弥さんから、

今日からは専門家になるのだから今までのような稽古のやり方ではなく、とても厳しいものになるよ

と、言われたそうで、

それからというもの、(これまで好き勝手やってきたのを)改めて専門家としての技術を身につけるため、朝10時から夕方5時15分の国立劇場の開演に間に合う時間まで、踊り、三味線、鳴り物、お習字、義太夫、お茶、お花、ピアノなど、稽古づくめの日々が始まり(同じものを2軒の稽古塲に通うこともあったそうです)、この生活は、20歳くらいまで6年間続いたそうで、

坂東さんは、

名前を継ぐと、ありとあらゆることがやってくるという覚悟がありました。僕、寝床を一回決めると、そこから外泊できない子どもだったんです。だから養父、養母のところに引っ越した後、ほとんど生家に帰らなかった。

実父は養父のところに僕をやりたくなかったと思います。そばに置きたかったと思うんですね。ただ、実父は僕の言いなりでしたから、行くと言ったら、『ああ、そうかい』って

と、語っています。

(20歳くらいから急に忙しくなって、稽古に行くことができなくなったそうですが、行けるものは時間を見つけて行っていたそうです)

実父と養父2人の父親は「自分の感情の根源」

ちなみに、坂東さんにとって、父親とは”自分の感情の根源”だそうで、「甘い」だけの実父と「厳しい」だけの養父、2人の父親に、それぞれのあり方で見守られていたそうで、

養父は『自分で一点でもいいと思ったら、役者は終わりだよ』という教育でした。それはずっと忘れないでいます。

『あの見栄をした時、気持ちよくやっていなかったか。おまえが気持ちよくやったのでは、お客さまにとっていいか分からない。苦しいなかから、務めなさい』と言われました。

養母には『あの瞬間、役ではないところを見ていたんじゃない?』と、目線を細かく叱られました。確かにその時、うつつの感情があったと思います

「どんなに(周囲から)ほめられても、慢心してはいけない」というのが父(14代目守田勘弥さん)の教えでした

と、語っています。


(左から)14代目守田勘弥さん(養父)、坂東さん、藤間勘紫恵さん(養母)。

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家系図

それでは、最後に坂東さんの家系図をご紹介します。

「坂東玉三郎が若い頃は白菊丸の美しさで三島由紀夫を魅了していた!」に続く

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