1964年14歳の時に、14代目守田勘弥さんの芸養子となり、その後、稽古に明け暮れる日々を送っていたという、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんですが、そんな中、作家の三島由紀夫さんに見初められたといいます。
「坂東玉三郎の家系図は?14歳で14代守田勘弥の芸養子に!」からの続き
17歳の時「桜姫東文章」の白菊丸役で三島由紀夫を魅了していた
1964年6月、14歳の時、5代目坂東玉三郎を襲名し、14代目守田勘弥さんの芸養子となった坂東さんは、その後も、歌舞伎座、東横ホール、新橋演舞場などで、数多くの舞台に出演してキャリアを積み、
1967年3月、17歳の時には、国立劇場の「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」で白菊丸役を演じているのですが、
この舞台を、作家の三島由紀夫さんが見て、坂東さんの美貌に魅了されたそうで、以来、坂東さんは三島さんに見い出され、世に出ていくことになります。
三島由紀夫と堂本正樹に絶賛される
ことの始まりは、1966年11月、国立劇場が開場すると、長年、歌舞伎座では脇役に甘んじていた養父・守田勘弥さんが活動の場を得ることができ、
(第1回公演には出演しなかったものの)同年12月の第2公演「菅原伝授手習艦」では、歌舞伎座では回ってくることがなかった、メインキャストである式部源蔵役を演じると、1967年には、国立劇場に5ヶ月、歌舞伎座に4ヶ月と、ほぼ交互に出演したそうで、坂東さんも、1月に「鳴神不動北山桜」、3月には「桜姫東文章」と国立劇場に出演します。
すると、作家の三島由紀夫さんと劇作家で演出家・演劇評論家の堂本正樹さんが、3月の公演「桜姫東文章」を観て、たちまち、若く美しい坂東さんに魅了されたそうで、知人や友人たちに熱心にその素晴らしさを語り、観るように勧めたのだそうです。
(堂本正樹さんによると、三島さんとは、堂本さんが慶應義塾大学の学生だった1949年夏、銀座のゲイバーで知り合ったそうで、以降、三島さんの弟分となるほど、お互い意気投合したそうです)
三島由紀夫はもともとは中村芝翫(後の6代目中村歌右衛門)を贔屓にしていた
実は、もともと、三島さんと堂本さんは、歌舞伎役者の中村芝翫(なかむら しかん)(後の6代目中村歌右衛門)さんに夢中だったそうで、芝翫さんが1951年4月に「歌右衛門」を襲名すると、同年11月、三島さんは、新進気鋭の作家として歌右衛門さんと念願の対面を果たし、以降、歌右衛門さんを贔屓(ひいき)にして、歌右衛門さんのためにお芝居を書くようになっていたそうです。
ただ、それから、16年が過ぎ、三島さんは、様々な理由から歌右衛門さんや歌舞伎から距離を置くようになったのですが、ちょうどその頃、坂東さんを見つけたのだそうです。
「坂東玉三郎は「桜姫東文章」の白菊丸役で澁澤龍彦も魅了していた!」に続く
「桜姫東文章」で「白菊丸」を演じる坂東さん。