これまでのテーマ性の強い演劇ではなく、言葉遊びで成り立つお芝居を目指された、野田秀樹(のだ ひでき)さんですが、「夢の遊民社」の成功により、消費される演劇に危機感を覚えられたことや、海外公演をきっかけに、言葉遊びでは海外に通用しないことを実感され、テーマ性を重視しつつも、歌舞伎と現代劇を融合させるなどの新境地を開拓されています。


「野田秀樹の少年時代は?劇作家!高校2年で処女作!カニバリズム(人肉食)?」の続き

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劇団「夢の遊民社」結成

野田さんは一浪して、東京大学に入学し、
演劇研究会(東大劇研)に入られると、
早々に、戯曲「白馬童子」を上演。

その後、「青山VAN99HALL」という小劇場で、
学外公演をされるようになると、

1976年には、
劇団名を「夢の遊民社」と改名し、

駒場寮の食堂が半分空いているのを見つけた野田さんは、
寮の委員会と交渉し、ここを劇場に。

鉄パイプを組んだ舞台、
ケチャップの缶に電球を仕込んた照明、
と、手作りの劇場を作られると、
「駒場小劇場」と名付けられたのでした。

ちなみに、第1回公演は、同年に、
「咲かぬ咲かんの桜吹雪は咲き行くほどに咲き立ちて明け暮れないの物語」
を、上演されているのですが、

野田さんは、
この言葉遊びのようなタイトルについて、

「どこから読んでも面白い、言葉遊びの金太郎飴のような本」

と、おっしゃっていました♪

「怪盗乱魔」で異常事態

その後、野田さんは、

「走れメルス 燃える下着はお好き」
「走れメルス(改訂版)」
「つっぱれ!おじょうず2万7千光年の旅」
「愛の嵐(親不知篇)」

「走れメルス~少女の唇からはダイナマイト!~」より。
(左から)古田新太さん、深津絵里さん、野田さん、
河原雅彦さん、小西真奈美さん、中村勘太郎さん。

など、次々に舞台を上演されると、
いずれも大きな反響を呼び、

当初から、すでに数百人いた観客は、
さらに、目に見えて増加。

そんな中、人気アイドルグループ
「キャンディーズ」解散後の伊藤蘭さんから、

「夢の遊民社」のお芝居に出たい、
との依頼があったそうで、

野田さんは、さっそく、
戯曲「怪盗乱魔」を書き上げられると、
1978年、伊藤さん主演で上演。

「怪盗乱魔」より。(左から)野田さん、
伊藤蘭さん、ねもときよみさん。

すると、観客は異常なほどに膨れ上がり、
立ち見でも追いつかないほどになったそうで、

野田さんは、当時の様子について、

初日にはそれほど満杯ってほど、お客さんが入ってなかったんだけど。
口コミでどんどん観客が増えていって。

千秋楽には定員の3倍ぐらい、
席数200の劇場に600人ぐらい押しかけてきた。

だからそれを、とにかく入れるだけ入れて。
それでも入りきらなくて。
劇場が元食堂だから、食堂の窓を全開にして、
「そこから覗いて」って言って。

本当に開演前の30分ぐらい、
しっちゃかめっちゃかな状態が続いた。

と、おっしゃっていました。

ちなみに、「怪盗乱魔」の舞台の中では、
伊藤さんが釜から飛び出すシーンがあるのですが、

実は、「怪盗乱魔(かいとうらんま)」とは、
「かま」の間に「いとうらん」さんが入っている状態♪

野田さんは、その後も、
こういった言葉遊びが次々と泉のように湧き上がり、
戯曲を書くのが追いつかないほどになっていったそうで、
演劇活動に熱中。

1981年、
ついに、大学を中退されたのでした。

海外公演で成功を収める

そして、1983年には、
戯曲「野獣降臨(のけものきたりて)」で、
「第27回岸田国士戯曲賞」を受賞。

「野獣降臨(のけものきたりて)」より。野田さん。

1986年には、国立代々木競技場第一体育館で、
ワーグナーのオペラ「ニーベンゲンの指輪」
をモチーフとした3部作(休憩を入れて12時間!)を一挙上演し、
1日に約2万7000人近くもの観客を動員。

また、1987年には、
エディンバラ国際芸術祭に招待劇団として参加され、
「野獣降臨」を上演。

1988年には、
ニューヨーク国際芸術祭に参加され、
「彗星の使者」を上演。

1990年には、再び、
エディンバラ国際芸術祭に参加し、
「半神」を上演されると、

海外でも拍手喝采され、
手応えを感じられたのでした。

ただ、野田さんの得意とする言葉遊びを使った演出は、
日本語の分からない海外公演においては無意味で、
ご自身の作風に限界を感じられる経験でもあったのだそうです。

「夢の遊民社」解散

こうして、野田さんは、
見事、成功を収められるのですが、

野田さんには、

バブル時代の影響を受けて、ブランド主義に走った人々が、
作品の質ではなく、劇団名だけで集まってきているのではないか。

と感じられ、

そういう疑念が生まれてきたら、とたんに怖くなった。
だから、当時の俺は、必ず終演後に、

「こういう浮かれたブームに乗せられることなく、
地道にやっていくつもりです」

と舞台上から観客に宣言していた。

そうでも言わない限り、
それこそいまのテレビ俳優と変わらないかたちで、
本気で劇団がメディアに消費される気がした。

と、劇団が消費されてしまう危機感を、
抱くようになっていったそうで、

1992年、人気絶頂の中、
「ゼンダ城の虜――苔むす僕らが嬰児の夜」の上演を最後に、
劇団「夢の遊民社」は解散したのでした。

「ゼンダ城の虜――苔むす僕らが嬰児の夜」より。
野田さんと円城寺あやさん。

解散後

その後の野田さんは、

「異国の土地で共通の言語抜きに、異文化交流ができるのだろうか」

という、海外公演以来の、
自らの問の答えを探すかのように、

文化庁芸術家在外研修制度の留学生として、
ロンドンに留学され、

人間の身体と想像力を多用する、
イギリスの劇作家サイモン・マクバーニーさん主宰の、
「テアトル・ド・コンプリシテ」のワークショップに参加されると、

帰国後の1993年には、
演劇企画制作会社「野田地図(NODA MAP)」を設立。

1996年には、
「RED DEMON(赤鬼)」
「THE BEE」

と、2つの英語戯曲を完成させたのでした。

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「野田地図(NODA MAP)」

ちなみに、この「野田地図(NODA MAP)」では、

「RED DEMON」で、
人間種における差別という普遍的なテーマを痛快に描写。

「RED DEMON(赤鬼)」より。

「THE BEE」では、
常にセリフの解釈が重んじられるイギリス演劇に、
野田さんのスピーディーな身体言語を融合。

「THE BEE」

その後の、「キル」「パンドラの鐘」「オイル」も、
テーマ性に重点をおかれるなど、
「夢の遊民社」時代とは全く異なった作風となっており、

2001年には、歌舞伎役者の、
五代目中村勘九郎(故・十八代目中村勘三郎)さんとともに、

日本の伝統芸能を、新しい視点でとらえて、
古典を大胆にアレンジした、
「野田版 研辰の討たれ」を歌舞伎座で上演。

その後も、
2003年「野田版 鼠小僧」
2008年「野田版 愛陀姫」
と上演されています。

「野田版 研辰の討たれ」より。十代目松本幸四郎さん、中村勘三郎さん。

さて、いかがでしたでしょうか?

イギリス留学から、帰国後のインタビューで、

これからは自分のことだけでなく、
日本の現代演劇全体のことを考えていきたい。
この国の演劇文化がただの消費で終わらないように。

なんらかの文化的装置を作りあげていきたい。
これに関して明解な答えはまだ出ていないけど。
何かやらなきゃ、という漠とした構想はある。

と、語っておられたとおり、

2008年からは、多摩美術大学で教授、
東京芸術劇場では芸術監督を務められている野田さん。

今後も、そんな野田さんからは、
目が離せそうにありません!!

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