50年以上に渡り、数多くのテレビドラマ、映画、ミュージカルに出演するほか、タケモトピアノのCMで有名な、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、今回は、そんな財津さんの生い立ちをご紹介します。

「財津一郎の本名は?芸名は吉本興業の社長が名付け親だった!」からの続き

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5歳の時に熊本から東京に転居

財津家は、もともと、豊後(大分県日田市)にあったそうですが、江戸時代、細川藩の招きで熊本に入ると、阿蘇の土地を管理するようになったそうで、

(豊臣秀吉が財津家の先祖に送った手紙も現存しているとのこと)

財津さんは、そんな由緒正しい家柄で、農林水産省の役人だったお父さんの永康さんとお母さんの房子さんのもと、6人兄弟(4男2女)の三男として、熊本で誕生すると、1939年、5歳の時には、お父さんが本省に転勤になったため、熊本から東京・阿佐ヶ谷に転居したそうです。

幼少期は優しい両親のもとすくすく育っていた

そんな財津さんは、幼い頃は、阿佐ヶ谷駅裏にあった神社の剣道場の門下生だったお父さんの勧めにより、兄弟たちと共に道場に入門したそうですが、

(お父さんはとても優しく、剣道の稽古にもよく付き合ってくれたそうで、お父さんとの一番の思い出になっているそうです)

お母さんは、ロシア民謡や大正ロマンを歌うなど、音楽好きな人だったことから、財津さんは、そんなお母さんの影響も受け、音楽好きの子供に育ったそうです。

また、財津さん一家は、家族で夕食を食べた後、就寝時間が近づくと、お母さんの「みんなやるよ~」の声を合図に、家族全員で部屋を隅から隅まで整理整頓することが日課となっていたそうで、このことも忘れられない思い出だそうです。

太平洋戦争が開戦し故郷・熊本へ疎開

こうして、優しい両親のもと、平穏な毎日を送っていたという財津さんですが、1941年に太平洋戦争が開戦すると、ほどなくして、お父さんに召集令状が届いて、お父さんは陸軍少尉として満州の守備隊に配属されることになり、

その後、東京の街は戦争一色となったことから、1943年には財津さんたち兄弟も故郷の熊本に疎開することになったそうですが、

その際には、熊本市に向かう阿佐ヶ谷駅のホームに、友達が見送りに来てくれ、

疎開が終わったら、江田島で会おうな

霞ヶ浦で会おうな

などと言って、みんなと別れたそうです。

(当時、江田島には海軍兵学校、霞ヶ浦には予科練があったそうで、財津さんをはじめ、みな、軍国少年だったことから、軍隊に入って、お国のために尽くそうと、本気で思っていたのだそうです)

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疎開先の熊本では熊本弁がわからず無口になりイジメられていた

そして、熊本に疎開した財津さんは、熊本師範学校男子部付属国民学校(現・熊本大付属小学校)に編入したそうですが、当初は、なかなか熊本弁に慣れず、とても苦労したそうで、

みんなが何を言っているのかさっぱり分からないため、周囲とのコミュニケーションが取れず、そのせいで、内向的で無口になり、いじめられたそうです。

(普段は、無口にもかかわらず、剣道など夢中になる出来事があれば、猪突猛進で突っ走ることから、「火だるま」というあだ名で呼ばれたそうです)

「財津一郎は進駐軍に圧倒されるも警官に日本人のプライドを感じていた!」に続く

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