21歳の時、祖父・民平さんの意向で、恩師の名前である「財津姓」を名乗ることになると、民平さんの開墾した広大な土地を受け継ぎ、25歳の時、山村サイさんと結婚したという、財津和夫(ざいつ かずお)さんの父・國平さんは、終戦後は、朝鮮半島の広大な農地を引き払い、日本で、養豚場や食堂を経営したといいます。
長兄と次兄が次々と夭逝(幼くして他界)していた
財津さんの父・國平さんは、山村サイさんと結婚後、すぐに、長男・昭平(あきら)さん、次男・征雄(ゆきお)さんと、2人の男の子に恵まれたそうで、國平さんは、息子たちの成長を写真に収めるなど、目に入れても痛くないほどかわいがっていたそうですが、
(この頃、國平さんは、広大な農地で、養蚕や野菜の栽培をしていたそうですが、朝鮮の人を大勢雇い、住み込みで働く人もいるなど、仕事は順調だったそうです)
昭平さんは6歳の時、腸の病気で入院すると、同年、小学校就学前に他界、
(葬儀は、地域をあげて盛大に行われたそうで、その際、國平さんが棺の前で悲しみをこらえる姿が目撃されているそうです)
さらに、追い打ちをかけるように、それから2年後には、次男・征雄さんも、4歳の時、赤痢で他界してしまったのだそうです。
朝鮮から日本へ引き揚げる
そんな中、1945年に太平洋戦争が終戦して、朝鮮半島にいた日本人は引き揚げを余儀なくされ、財津さんの祖父の民平さんは帰国を頑なに拒んだそうですが、
(自分はこの地で死ぬと言って聞かなかったそうです)
家族のみんなから説得され、終戦から3ヶ月後、一家で、ナムピョン(南平)を去って、釜山から引揚船に乗り込み、同年には、無事、福岡博多港へ到着したそうです。
(國平さんとサイさん(財津さんの両親)は、働いていた朝鮮の人たちに、「家と土地は使ってください。お世話になりました」と言って別れたそうです)
父・國平は養豚場⇒食堂を経営していた
その後、國平さんは、70歳を超えた両親と妻や子供たちを抱え、生活を一身に背負うことになったそうですが、ゼロからやり直そうと覚悟を決め、開拓農場の仕事を始めるほか、倉庫を家族が住めるように改造したり、ドラム缶で五右衛門風呂を作るなどの工夫をし、生活の基盤を整えていったそうです。
(開拓農場は博多湾の埋立地に、引揚者の雇用確保などの目的で作られたものだったそうです)
そんな中、1948年には、財津さんが誕生しているのですが、國平さんは、もっと収入を増やそうと、開拓農場の一角で、養豚を始めると、
(財津さんの三兄・三郎さんによると、米軍の高射砲部隊の基地や施設から出る残飯をもらって来て、ブタに食べさせる、という仕事だったそうですが、三輪の自動車にドラム缶を積んで、残飯を移し替え移し替えする作業で、大変な重労働だったそうです)
1950年には、開拓農場内に競輪場ができたため、そこで食堂を開店したのだそうです。
(食堂は、引き揚げ後に住んでいた地域が競輪場建設地となったため、立ち退きの見返りに営業権を得たものだったそうで、お母さんのサイさんは、調理師免許をとるために猛勉強したのだそうです)
「財津和夫は幼少期から米軍ラジオの音楽を聴きアメリカに憧れていた!」に続く