農業をするため、朝鮮半島に移住すると、やがて、地元でも有数の広大な土地を所有する農場経営者となったという、財津和夫(ざいつ かずお)さんの父方の祖父・緒方民平さんですが、恩師の財津永枝さんが亡くなった後、やがて、跡継ぎも亡くなり、財津家が途絶えそうになっていることを知り、次男の國平さん(財津さんのお父さん)に「財津」姓を名乗らせたといいます。

「財津和夫の祖父は朝鮮半島に移住し有数の農場経営者となっていた!」からの続き

Sponsored Link

財津和夫の父・國平の代から財津姓を名乗るようになっていた

財津さんの父方の祖父・緒方民平さんには、2人の息子がいたそうで、長男の公平さんは医師を目指し、医学専門学校へ進学し、次男の國平さん(財津さんのお父さん)は、農場の後継ぎとして地元の農場学校へ進学したそうですが、

民平さんは、1930年(昭和5年)、國平さんが21歳になった時、

これからは財津の名を名乗ってほしい

と、言ったといいます。

父方の祖父・民平の恩師の財津家が途絶えさせないためだった

実は、民平さんは、幼少期、西南戦争のあおりを受け、家が消滅するなど経済的に困窮して、小学校に通えなくなり、小学校の窓の外から授業を立聞きしていたところ、13歳のある日のこと、一人の教師(「財津永枝(ざいつながえ)」さん)から声をかけられ、事情を話すと、その教師のはからいで小学校に通うことができたそうですが、

当時、就学率は半分ほどしかなく、小学校卒の学歴でさえ、誰もが持てるものではない時代だったそうで、そんな中、小学校を無事卒業でき、警察官、公務員と順調にキャリアを重ね、その後、朝鮮で成功をつかむことができたのは、その教師のお陰と、とても恩に感じ、1907年にその教師が他界するまで連絡を取り合い、感謝の気持ちを忘れることはなかったそうで、

永枝さんの死後、永枝さんの跡取りが亡くなり、財津家が途絶えようとしていたことを知り、永枝さんの恩に報いるため、次男の國平さんに「財津」姓を名乗らせることにしたのだそうです。

(永枝さんは江戸時代末期の嘉永3年に誕生した、熊本藩士だったそうですが、明治になって教師になったそうで、先祖は、戦国のキリシタン大名・大友宗麟氏に仕えた家臣という、由緒ある家柄だったそうです)

Sponsored Link

父・國平が山村サイと結婚

こうして、國平さんは、「財津」姓を21歳から名乗ると、父・民平さんの開墾した広大な農地を受け継いだそうで、1934年(昭和9年)、25歳の時には、山村サイさん(21歳)と結婚したのだそうです。

(山村家は、民平さんと同じ熊本出身で、もともとはたばこを栽培していたそうですが、サイさんが3歳の時、より良い生活を求めて朝鮮半島に渡って来たそうで、民平さんは、女学校時代の仲間や先生たちからサイさんの評判を聞き、「この人なら」と思い、國平さんに縁談を持ちかけたのだそうです)

「財津和夫の父親は朝鮮引揚後は養豚場⇒食堂を経営していた!」に続く

Sponsored Link