西南戦争のあおりを受けて家が消滅するなど経済的に困窮し、小学校に通えなくなっていたところを、ある教師のはからいで小学校に通うことができたという、財津和夫(ざいつ かずお)さんの父方の祖父・緒方民平さんは、その後、公務員を経て、朝鮮半島に移住し、地元でも有数の農場経営者となったといいます。

「財津和夫の祖父は熊本藩士だった!」からの続き

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父方の祖父・民平は警察官から熊本県の役人になっていた

財津さんの父方の祖父・民平さんは、1886年(明治19年)19歳の時、警察官になり、日本各所で勤務するようになると、1898年(明治31年)5月、31歳の時には、文官普通試験(現在の公務員試験)に合格し、1899年(明治32年)、32歳の時には、熊本県の役人に採用されたそうですが、

民平さんは、当時、特別の人にしか与えられなかったという賞与を、どこの勤務地でも受け取っていたそうで、各所で上司に認められていたことが伺えます。(現在のボーナス制度は昭和の太平洋戦争時代にできたものだそうです)

また、民平さんは、1898年(明治31年)には、としさん(財津さんの祖母)と結婚しています。

父方の祖父・民平は朝鮮半島光州・南平に移住していた

そんな民平さんは、公務員として一生懸命働いたそうですが、やがて、農業をやりたいと思うようになり、1908年(明治41年)、41歳の時には、農業をするため、朝鮮半島に移住することを決断したそうで、

翌年の1909年(明治42年)、朝鮮半島南西部の都市クァンジュ(光州)の近く、ナムピョン(南平)という農村に移り住むと、水を確保しやすい土地を手に入れて開墾していき、りんごや柿、きゅうり、ナスなどの栽培と養蚕を始めたそうです。

(この土地には、第二次世界大戦の終戦前まで、500人の日本人が住んでいたそうで、その日本人が桑の木を植えるほか、梨やキャベツを栽培して開拓したそうで、現在でも、家具店など、日本人が暮らした後が街中に残っているそうです)

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父方の祖父・民平は朝鮮半島光州・南平で有数の農場経営者となっていた

すると、民平さんは、やがて、地元でも有数の、広大な土地を所有する農場経営者となり、他の日本人と資金を出し合って小学校を設立するほか、その学校の責任者を務めたり、新たな駅を作るために奔走するなど、町内の顔役として活躍したそうで、

1920年(大正9年)、民平さんが、墓参りに里帰りした際には、取材を受け、

朝鮮で大成功を収めた緒方民平氏。汗と力によりて今日の富を作り得たる。

と、新聞に掲載されたそうです。

(民平さんは、「緒方」という漢字を韓国語読みした「ソバン」と名乗っていたそうです)

また、当時、民平さんの農場で働いていたという、リン・ホンファンさんによると、民平さんは、働いた賃金を踏み倒すことがない誠実な人だったとのことでした。

「財津和夫はもともと「財津姓」ではなかった!」に続く

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