1972年、24歳の時、「チューリップ」として「魔法の黄色い靴」でメジャーデビューするも、レコーディングの翌日にメンバー2人が脱退し、やむなく解散したという、財津和夫(ざいつ かずお)さんですが、

1973年、新生「チューリップ」としてリリースした3枚目のシングル「心の旅」が大ヒットとなると、その後も、「青春の影」「サボテンの花」「虹とスニーカーの頃」など、独特なメロディーと歌詞で多くのファンの心を掴み、ヒットを連発しました。

今回は、財津和夫さんの若い頃(「チューリップのアマチュア時代」から「第一期チューリップ」まで)の代表曲や経歴を時系列でご紹介します。

財津和夫

「財津和夫の生い立ちは?高校でビートルズにハマるも高卒後はパチプロ?」からの続き

Sponsored Link

財津和夫は23歳の時に「チューリップ」として「私の小さな人生」でデビューするもメンバーの脱退ですぐに解散していた

1971年、メジャーデビューを目指して上京した財津和夫さんは、同年、「チューリップ」として、ファーストシングル「私の小さな人生」でデビューを果たしたのですが、

なんと、レコーディングの翌日には、メンバー2人が脱退し、いきなり、「チューリップ」は解散となってしまったそうです。

ちなみに、脱退したメンバーの宗田慎二さんと末広信幸さんは、脱退した理由について、財津和夫さんのワンマンなところについていけなくなったこと、プロでやっていく自信がなく、将来が不安になったことなどを、1994年、NHKの番組「それぞれの歌の別れ~財津和夫と仲間たち~」で明かしています。

財津和夫は24歳の時に新生「チューリップ」として「魔法の黄色い靴」で再デビューするも売れなかった

さておき、財津和夫さんは、「チューリップ」を解散後は、地元・福岡に戻り、新しいメンバー集めに奔走したそうで、

1972年には、財津和夫さん、吉田彰さん、安部俊幸さん、上田雅利さん、姫野達也さんの5名からなる新生「チューリップ」(第一期)を結成し、

1972年6月には、新生「チューリップ」として、ファーストシングル「魔法の黄色い靴」で再デビューを果たすのですが・・・

売上はパッとしなかったそうです。

「魔法の黄色い靴」
「魔法の黄色い靴」

財津和夫は新生「チューリップ」としての2枚目のシングル「一人の部屋」も売れなかった

実は、財津和夫さんは、新生「チューリップ」として、再デビューが決まった時、故郷を捨てる覚悟で上京していたそうで、

お金がなかったため、新幹線のチケット代、アパート代、生活費など、すべて、事務所から前借りして賄(まかな)い、アパートは古い木造2DKで、メンバー5人がすし詰め状態で共同生活をするなど、ギリギリの生活だったといいます。

そんな中、1972年9月20日、2枚目のシングル「一人の部屋」をリリースしたそうですが・・・

これも、売れなかったそうです。

「一人の部屋」
「一人の部屋」

財津和夫は25歳の時に「心の旅」がオリコンチャート1位を獲得する大ヒット

そんな財津和夫さんは、周囲から見放されつつある雰囲気を感じ、焦りながらも、1973年4月20日、3枚目のシングル「心の旅」をリリースすると、

発売直後のセールスは、相変わらずパッとしなかったものの、リリースしてから5ヶ月後には、オリコンチャート1位を獲得する大ヒット。

(「チューリップ」最大のヒットとなったそうです)

「チューリップ」は、一躍、スターダムにのし上がったのでした。

「心の旅」
「心の旅」

ただ、「心の旅」では、リード・ボーカルは姫野達也さんで、それまでリード・ボーカルを担当していた財津和夫さんはコーラス担当だったことから、財津和夫さんは、ショックを受けたといいます。

Sponsored Link

財津和夫は26歳~31歳の時に「夏色のおもいで」「銀の指環」「青春の影」 「サボテンの花」 「虹とスニーカーの頃」 がヒットしていた

それでも、財津和夫さんは、新生「チューリップ」として、その後も、立て続けにシングルをリリースすると、

「夏色のおもいで」「銀の指環」「青春の影」「サボテンの花」「虹とスニーカーの頃」などがヒットし、「チューリップ」はその人気を不動のものにしたのでした。

「青春の影」
「青春の影」

「財津和夫の若い頃(チューリップ第2,3期)はメンバーの脱退&加入を繰り返していた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link