宗田慎二さんと末広信幸さん脱退後は、吉田彰さん、上田雅利さん、姫野達也さん、安部俊幸さんと共に、新生「チューリップ」を結成し、1972年6月、「魔法の黄色い靴」で再デビューを果たすも、鳴かず飛ばずだったという、財津和夫(ざいつ かずお)さんですが、実は、再デビューするための上京は、人生を賭けた一発勝負だったといいます。

「財津和夫は新生「チューリップ」で再デビューも当初はさっぱりだった!」からの続き

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再デビューが決まった際には故郷を捨てる覚悟で上京していた

財津さんは、再デビューが決まった際、活動拠点を福岡から東京に移す決心をし、同時に、故郷を捨てると心に誓っていたそうで、

NHK「ザ・ヒューマン」でのインタビューをまとめた書籍「人生はひとつ でも一度じゃない」では、

福岡から見ると、当時の東京は異国のような大都会でした。福岡にはない首都高や地下鉄を見るだけで、「もう負けそう」と弱気になって福岡へ戻りたくなってしまうんです。

おまけにお金もなかった。本当に体ひとつ、所持金ゼロに近い状態での上京でしたから。それで東京に着くと、まっすぐに所属事務所に行き、五人の当面の生活費を借りたことを今もよく覚えています。

本当に不安でした。 だからこそ、里心がつかないよう『福岡という地名が聞こえたら耳をふさごう』『福岡を嫌いになってしまおう』と誓ったんです

と、語っており、

上京は、並々ならぬ決意だったようですが、実際、当時、九州から上京するということは、今では考えられないほど、大変なことだったそうです。

(故郷を捨てるというのは、本心ではなく、里心がつかないよう、強気に振る舞っていただけだったのですが、周囲はそんな思いは理解してくれず、福岡の人々から「故郷を大切にしないやつ」と反発されることも多々あったそうです)

上京時の航空券代やアパート代は事務所から前借りしていた

というのも、当時、福岡から東京行きの新幹線はまだなく、飛行機での上京だったのですが、無一文だった財津さんたちは、自費で乗れるはずもなく、航空券代は、売れた時に支払うという条件で、所属することになる事務所から借りての上京だったそうで、

さらには、上京後は、メンバーが一緒に暮らすアパート代や生活費も、すべて、事務所からの前借りだったのだそうです。

(財津さんたちが上京した際は、メンバー全員、長髪にヨレヨレの黒いレインコートを着たヒッピースタイルで、頬がげっそりとやつれ、飢えが顔ににじみ出るほどだったそうですが、それでも、自分たちが理想としている音楽だけを唯一の頼りにして上京していたのだそうです)

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2DKの古びた木造アパートでメンバー5人すし詰めになって共同生活をしていた

そんな財津さんは、上京直後は、東京メトロ「表参道駅」から徒歩5分ほどの、南青山6丁目の交差点から少し入った住宅地の一角の、古びた木造アパートの一室で、メンバー5人で共同生活を始めたそうですが、

(アパートは畳敷きの2DKだったため、5人はすし詰めのような状態だったうえ、キッチンには、蛇やムカデが這いずり回っていたそうです)

財津さんは、そこでの生活について、

窮屈でしたが、五人の暮らしは新鮮でした。近所に飲食店もあまりなかったから、みんなでチャーハンを作って食べたりしました。通りの向こう側にハンバーガー店があって、それが珍しかったなあ。

ただ、東京暮らしを始めたといううれしさはあったんですけど、見ず知らずの街だし、お金もない。だから、どこか不安で、どこに出かけるにも金魚のフンのように、五人ぞろぞろといっしょでした

と、語っています。

(現在は高級住宅街の南青山も、当時は、建物も少なく、夜になると真っ暗になるような場所だったそうで、表参道も、当時は車が3分に1度通るか通らないかのような場所だったそうです)

「財津和夫は新生「チューリップ」で2nd「一人の部屋」もさっぱりだった!」に続く


人生はひとつ でも一度じゃない

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