1971年、「チューリップ」として、ファーストシングル「私の小さな人生」でデビューを果たすも、レコーディングした翌日に、メンバーだった宗田慎二さんと末広信幸さんが脱退したことから、やむなく「チューリップ」を解散したという、財津和夫(ざいつ かずお)さんは、福岡に戻って、新メンバー集めに奔走し、1972年、新生「チューリップ」として、「魔法の黄色い靴」で再デビューを果たすのですが・・・

「財津和夫のワンマンが宗田慎二と末広信幸のチューリップ脱退理由だった?」からの続き

Sponsored Link

新生「チューリップ」を結成

宗田慎二さんと末広信幸さんの2人が脱退し、途方に暮れたという財津さんですが、一旦、福岡へ戻り、再起をかけて、メンバー集めに着手すると、

「海援隊」から上田雅利さん(ドラムス)、地元で活躍していたバンドから姫野達也さん(ヴォーカル、ギター、キーボード)、別のバンドで活躍していた安部俊幸さん(ギター)を引き抜き、

財津さん、吉田彰さん、安部俊幸さん、上田雅利さん、姫野達也さんの5名で、新生「チューリップ」(第一期)として音楽活動を開始したそうです。

(プロで通用するほどの技術を持ったメンバーは、そう簡単には見つからなかったため、実績のあるバンドで活躍しているメンバーを引き抜くしかなかったそうですが、その結果、3つのバンドを壊す形になり、地元では、「バンド潰しの財津」と呼ばれて、随分、恨まれたそうです。(特に、上田さんは、強引に引き抜いたそうです))

「魔法の黄色い靴」で再デビューするもさっぱりだった

そんな財津さんは、主に、「歌声喫茶」(現在のライブハウス)で演奏しながら、小遣いを稼ぎ、再起の機会をうかがっていたそうですが、ある真夜中に「えいや!」とレコーディングした「魔法の黄色い靴」が、地元福岡の音楽関係者の間で瞬く間に評判となったそうで、

この「魔法の黄色い靴」のデモテープを持って上京し、再び、「東芝音楽工業」(現・ユニバーサル ミュージック合同会社)のディレクター・新田和長さんを頼って、「魔法の黄色い靴」のデモテープを売り込むと、これを気に入った新田さんがプロデューサーとなって、デビューが決まり、1972年6月には、新生「チューリップ」として、「東芝音楽工業」からファーストシングル「魔法の黄色い靴」で再デビューを果たしたそうですが・・・


魔法の黄色い靴

その、「ビートルズ」的なポップ・センス溢れる音楽は、業界内での評判は良かったものの、当時の日本の音楽シーンには、なかなか受け入れられず、全国で2000枚しか売れなかったのだそうです。

(売れたのは地元福岡だけだったそうです)

Sponsored Link

新生「チューリップ」は観客にまったくウケなかった

ちなみに、当時は、吉田拓郎さんに代表されるフォークソング全盛の時代だったことから、「ビートルズ」のようなサウンドの「チューリップ」は異色の存在だったそうで、

(フォークコンサートに出演すれば「ロックじゃないか」、ロックコンサートに出演すれば「フォークだ」と言われたそうです)

地味なライブ活動ですら、集まったお客さんのほとんどは、友人や仕事関係者ばかりだったそうです。

また、初めてのラジオ出演は、50人ほどの観客がいるスタジオだったそうですが、1曲目の「ビートルズ」ナンバーを歌い終えても、客席からの反応はなく、

財津さんが、MCの際、笑いを取ろうと、「う、う、うんこ」と口走るも、客席は静まり返ったままだったそうです。

(福岡のライブハウスではウケていたMCも、慣れない標準語を使っていた東京ではまったくウケなかったのだそうです)

「財津和夫が若い頃は古びた木造2DKでメンバー5人共同生活をしていた!」に続く


1972年、再デビュー当時の「チューリップ」。

Sponsored Link