1972年、「金色の太陽が燃える朝に」でレコードデビューすると、1974年、バンド「上田正樹とサウス トゥ サウス」の活動を経て、1982年、シングル「悲しい色やね」が大ヒットを記録した、上田正樹(うえだ まさき)さん。
そんな上田正樹さんは、小学2年生の時に、京都大学卒業の医師だったお父さんが結核で他界し、その後、お母さんが、お父さんの友人で同じ京都大学卒の医師と再婚したことから、小学4年生の時、義父への反発心から、東京大学卒の医師を目指し、猛勉強を始めるようになったそうですが、
高校2年生の時に、友達に誘われて行ったイギリスのロックバンド「アニマルズ」のライブを観て衝撃を受け、以降、勉学を放棄し、音楽の道を志したといいます。
今回は、上田正樹さんの、幼少期(生い立ち)から、高卒後に家出して大阪でホームレス生活するまでをご紹介します。
上田正樹のプロフィール
上田正樹さんは、1949年7月7日生まれ、
京都府京都市の出身、
血液型はA型、
学歴は、
京都市立第三錦林小学校
⇒岐阜県高山市立松倉中学校
⇒岐阜県率岐阜高等学校
⇒兵庫県立福崎高等学校(編入)
ちなみに、「上田正樹」は本名です。
上田正樹は小学2年生の時に父親が結核で他界していた
上田正樹さんは、京都大学医学部卒業の医師だったお父さんのもと京都市で誕生すると、恵まれた家庭環境で育っていたそうですが、
お父さんの結核が悪化し、お母さんも感染したことから、小学2年生の時、お母さんの実家がある兵庫県神崎郡福崎町(姫路)に預けられたそうです。
そして、まもなくして、お父さんが結核で39歳の若さで他界されたそうで、
上田正樹さんは、その時のことを、
夏休みに母の実家から自宅に戻ると、床の間に白い箱があった。何かと聞いたら、『お父さんだよ』。衝撃でした。だから父の印象は入院中の寝たきりの姿だけ。おふくろも義理の父も何も教えてくれませんでした
と、語っています。
上田正樹は小学4年生の時に東京大学医学部を目指し猛勉強を開始していた
その後、お母さんは、結核から回復し、お父さんの親友で京大卒の医師と再婚したそうで、上田正樹さんが小学4年生の時には、岐阜県高山市へ移り住んだそうですが、
上田正樹さんは、
(義父も医者だったことから)父が京大なら自分は東大卒の医師になる
と、心に決め、猛勉強に励んだそうです。
また、中学時代には、生徒会長も務めるなど、優秀な生徒だったといいます。
上田正樹は高校2年生の時にイギリスのロックバンド「アニマルズ」のライブを観て音楽の道に進むことを決意していた
そんな上田正樹さんは、中学卒業後は、進学校である岐阜県立岐阜高等学校に進学したそうですが、
高校2年生のある日のこと、友達がイギリスのロックバンド「アニマルズ」のライブのチケットをくれたことから、学生服姿で名古屋公演を観に行くと、
(その友達は、急に来られなくなった自分の彼女の代わりにと、軽い気持ちで誘ってくれたそうです)
最前列だった上田正樹さんは、「Boom Boom」という曲を聴いて、身体の全細胞が震えるくらいの衝撃が走り、たちまち、夢中になったそうで、
この時、
自分も絶対に音楽をやるんだ
と、思ったのだそうです。
(上田正樹さんは、それまで、音楽は嫌いではなかったものの、生活の中に音楽があるという環境ではなかったそうです)
上田正樹は高校3年生の時に強制転校させられていた
そして、その翌日から、上田正樹さんは、勉強を放りだして中古の安いギターを買い、毎日、高校にも行かずギターの練習に励む日々を送るようになったそうで、
上田正樹さんが通っていた岐阜県立岐阜高等学校は、岐阜県中から生徒が集まってくる進学校だったことから、上田正樹さんは問題児とみなされ、見かねた義父により、母方の実家に戻され、高校3年生の時に、兵庫県立福崎高等学校に強制的に転校させられたのだそうです。
(岐阜県立岐阜高等学校は、進学校だったため、音楽をやっている友達はおらず、バンド活動はしていなかったそうです)
上田正樹は高校3年生で兵庫県立福崎高等学校編入後、バンドを結成してディスコでライブ活動を行っていた
こうして、高校3年生の時、兵庫県立福崎高等学校に編入した上田正樹さんですが、早速、ギター部に入部し、部員4人でバンド「ミート・ビーツ」を結成すると、
この年の夏休みは1日も休むことなく毎日練習し、学校に内緒で、姫路のディスコでライブ活動などをやっていたそうで、学校に見つかるのではないかと、いつもビクビクしていたそうです。
(ギター部の顧問の先生にはバレていたようですが、先生は黙ってくれていたそうで、上田正樹さんは、そのことに今も感謝しているそうです)
上田正樹は高校卒業後は音楽活動のために家出して大阪でホームレス生活をしていた
そんな上田正樹さんは、高校卒業後は、自分としてはまじめに音楽をやっていたそうですが、家族からは不良と見られ、なかなか受け入れてもらえず、祖父母の跡を継いで呉服屋になれと言われたそうで、
それを断り、全く何のあてもないまま家を出たそうで、ギターを玄関の外に隠しておき、お兄さんのへそくり3万円をこっそり頂戴して、下着とタオルと桶を片手に、
ちょっと風呂へ行ってくる
と玄関で言って家を出たきり、大阪に向かい、以降6年間、家に戻らなかったのだそうです。
ちなみに、大阪に到着した上田正樹さんは、路上でギターを弾いて過ごし、大阪の天王寺公園でホームレス生活をしつつ、毎日のようにライブハウスやディスコを訪ね、
シンガーとして雇ってもらえませんか?
と、言って回っていたそうです。
上田正樹はミナミのライブハウスにシンガーとして採用されていた
そして、いよいよ、所持金があと30円となった日、ミナミのライブハウスを訪れると、
わかった、じゃあ弾いてみい
と、言われたそうで、
上田正樹さんが、エディ・フロイドの「Knock on Wood」というアメリカ南部のR&Bの定番曲を弾き語りすると、
弾き終わるや、
明日から来い
と、言ってもらえたそうで、
さらには、
必ず来いよ
と、言って、月々払うと約束してくれた5000円を先払いしてくれたそうで、
上田正樹さんは、
やったーーーー!
と、叫びながら、公園まで帰ったそうで、
嬉しくてたまらず、
明日から俺はシンガーや
と、仲間に言って回ったのだそうです。
ちなみに、その後、上田正樹さんは、月3000円で暮らせる共同炊事、共同トイレの住居を借りることができたそうで、月々残るお金は2000円だったそうですが、
近所のおばちゃんがおかずを差し入れてくれたことから、お米があればなんとかしのげたそうで、大阪の人たちの人情に何度も助けられたのだそうです。
上田正樹は23歳の時に「金色の太陽が燃える朝に」で歌手デビュー
その後、上田正樹さんは、ライブをしていた際、ライブを観に来ていたプロデューサーに、
歌を出さないか
と、声をかけられたそうで、
1972年12月、23歳の時には、「金色の太陽が燃える朝に」で歌手デビューを果たしたのでした。
「金色の太陽が燃える朝に」
上田正樹は25歳の時にバンド「サウス・トゥ・サウス」でデビュー
そして、1974年、25歳の時には、バンド「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」でデビューすると、1975年には、ライブアルバム「この熱い魂を伝えたいんや」を発表し、ソウルフルなヴォーカリストとしてたちまち脚光を浴びたのですが・・・
1976年には、「サウス・トゥ・サウス」は解散しています。
上田正樹は33歳の時にリリースした「悲しい色やね」が大ヒット
以降、上田正樹さんは、ソロ活動をするも、ヒット曲に恵まれなかったのですが、
そんな中、1982年10月21日、33歳の時、「悲しい色やね」をリリースすると、発売直後は売れ行きは良くなかったものの、有線放送から火がつき、1983年の夏頃にはオリコンチャートの上位にランクインし、この年、34.8万枚を売り上げる大ヒットを記録したのでした。
「【画像】上田正樹の若い頃は?悲しい色やねほかヒット曲やアルバムを時系列まとめ!」に続く
「悲しい色やね」
1972年、23歳の時、シングル「金色の太陽が燃える朝に」で歌手デビューすると、1974年には、「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」を結成し、ソウルフルな歌声でたちまち脚光を浴びた、上田正樹(うえだ まさき)さん。 そんな …