1974年、「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」を結成し、1982年には、ソロでリリースした「悲しい色やね」が大ヒットし、一躍、有名になった、上田正樹(うえだ まさき)さん。
そんな上田正樹さんのプライベートはどのようなものだったのでしょうか。
今回は、上田正樹さんの、元妻・朝本千可さんとの馴れ初めや凄すぎる離婚理由、娘の上田郁代さんについてご紹介します。
「【画像】上田正樹の若い頃は?悲しい色やねほかヒット曲やアルバムを時系列まとめ!」からの続き
上田正樹の元妻・朝本千可との馴れ初めは?
上田正樹さんは、1988年、39歳の時、11歳年下のサックス奏者・朝本千可さんと結婚しています。
上田正樹さんの元妻の朝本千可さん。
実は、上田正樹さんは、札幌で行われた音楽イベントでの共演で朝本千可さんと知り合ったそうですが、
(このイベントは、かまやつひろしさんと森山良子さんがメインで、上田正樹さんはゲスト出演だったそうです)
上田正樹さんがステージに持っていったサックスは、次にステージに上がる朝本千可さんのものだったそうで、上田正樹さんは、途中で気がついたものの、そのまま吹き続け、ステージ終了後に朝本千可さんに謝ったそうで、
このことがきっかけとなり、交際に発展したそうで、それから2ヶ月後、朝本千可さんのプロポーズで結婚に至ったのだそうです。
上田正樹は元妻・朝本千可のサポートで海外に進出していた
結婚後、上田正樹さんは、朝本千可さんに、事務所にマネージメント料を取られるのは損だから独立しようと提案され、2人で個人事務所を設立したそうで、
海外にもコネクションのあった朝本千可さんの尽力により、韓国でアルバム「HANDS OF TIME」を制作するほか、台湾やインドネシアなど他のアジアにも進出すると、最終的には、バリ島に別荘を構え、本格的に活動の拠点を海外に移したそうです。
(朝本千可さんは、在日韓国人3世で、アメリカのバークレー音楽大学でジャズを学んでおり、アメリカ生活が長かったそうです)
上田正樹と元妻・朝本千可の離婚理由は?
離婚理由①朝本千可に勝手にオファーを断られていた
ただ、上田正樹さんと朝本千可さんは、2006年に離婚しています。
というのも、上田正樹さんは、2000年7月、インドネシアのアーティストで、歌姫と呼ばれ人気絶頂だったREZA(レザ)さんとのデュエット曲「Biar Menjadi Kenangan」をリリースすると、
現地で、17週連続ヒットチャートのトップを独占する大ヒットを記録し、これにより、”インドネシアで一番有名な日本人アーティスト”となっているのですが、
上田正樹さんは、「悲しい色やね」(1982年リリース)以降、歌手としての方向性を見つけることができず、悩んでいたそうで、
そんな中での「Biar Menjadi Kenangan」の大ヒットで、海外でもやっていけるという自信がつき、売れる売れないは関係なく、インドネシアのミュージシャンたちとまた一緒に仕事がしたいと思っていたそうですが、
「Biar Menjadi Kenangan」があれほどの大ヒットをしたにもかかわらず、全くオファーがなく、おかしいと思っていると、信頼していた妻の朝本千可さんが、上田正樹さんのもとに来ていたオファーを無断で全て断っていたことが分かったそうで、
上田正樹さんは、このことについて、
マネジメントとかカネのこととか、すべて彼女に任せていたからね。勝手に断っていたなんて、まったく知りませんでした。彼女にしてみれば、カネにならないインドネシアよりも、日本での営業を入れた方がいいという判断だったんだろうけど。
でも、それじゃ、自分のやりたいことをやりたいと思って独立した意味がない。以前の所属事務所にいるのと、まったく変わりがないわけです。
普通だったら、また事務所を替わればいいだけの話なんだけど、厄介だったのは相手が妻兼マネジャー兼ミュージシャンだったこと。結婚した当初から、あれっ? ちょっと違うなと思うことはあったよ。
でも、その頃は、韓国でアルバムを出したときのように、俺を前に進ませるために、時には背中を押し、時には面倒なことから守ってくれているんだと思っていました。
と、語っています。
離婚理由②朝本千可に現金を隠し持たれていた
また、海外に進出していた2000年頃、日本では、(田舎で、遠慮なく音を出せるという理由から)三浦半島に住んでいたそうですが、
家では、朝本千可さんに、お酒を飲んではいけないと言われ、ウイスキーを隠されていたことから、朝本千可さんがいない間に家の中を探し回ると、段ボール箱が出てきたそうで、
なんだろうと思い、開けてみると、上田正樹さんが知らない札束がごっそり入っていたそうで、上田正樹さんは、いけないものを見てしまった気持ちになり、少しだけ懐に入れて、そっと元に戻しておいたといいます。
離婚理由③朝本千可にミュージシャンとしての才能を認めるよう要求されていた
ただ、離婚を決意したのは、この時ではなく、
朝本千可さんに、
私をうまいって言って
と、言われたことだったそうで、
この一言で、何かがプツンと切れた気がしたそうで、
上田正樹さんは、
今でこそはっきり言えるけど、彼女がプロデュースをするようになったのは、彼女自身のサックス奏者としての仕事がなかったから。お世辞にもうまいとは言えないのに、ミュージシャンとしての才能も認めろと要求――。それはさすがに限界を超えていました。
彼女はアメリカでの生活が長かったから行動は早いし、あちこちにアンテナも張っていて、それはこれで評価していました。でも、離婚話になったら、仏壇は投げるわ……でね。もう完全に終わりましたね。
と、語っています。
上田正樹は離婚裁判で朝本千可にギャラの未払い2000万円ほか総額6000万円の借金をされていたことが判明していた
しかも、離婚裁判の際、(実印を預けていたことから)会社名義の借金が1500万円ほど、手伝ってくれたミュージシャンたちへのギャラの未払いも2000万円ほどあったことが判明し、結局、総額6000万円くらいの借金が見つかったそうで、
上田正樹さんは、実印を朝本千可さんに預けていた責任が自分にあると思い、バリの別荘や三浦半島の家も朝本千可さんにあげ、借金もコツコツと返したそうですが、自分名義の借金よりも、手伝ってくれたミュージシャンへの未払いは絶対に許せなかったそうです。
ちなみに、上田正樹さんと朝本千可さんの離婚が公になった際には、疎遠になっていた関西のミュージシャンたち20人くらいから一斉に「おめでとう」と、お祝いの連絡が来たそうで、
彼らは、上田正樹さんが未払いにするとは思えず、みんな、元妻の朝本千可さんのせいだと思っていたのだそうです。
(また、離婚理由には、ほかにも、上田正樹さんが創価学会の会員のため、宗教上の理由によるものだという話もあるのですが、真偽は不明です)
上田正樹の娘は舞台女優の上田郁代
そんな上田正樹さんと朝本千可さんの間には、1976年4月28日に女の子が1人誕生しており、舞台女優の上田郁代さんです。
上田正樹さんの娘の上田郁代さん。
上田郁代さんは、劇団「BOOGIE★WOOGIE」の旗揚げに参加すると、その後は、公演などを中心に活動していたそうですが、
2015年7月に「BOOGIE★WOOGIE」が解散すると、同年11月には、「BOOGIE★WOOGIE」のメンバー3人と共に「劇団PIS★TOL」を旗揚げしています。
また、プライベートでは、2011年9月、俳優・殺陣役者である水野大さんと結婚し、子供が2人(女の子と男の子)いるそうです。
1972年、「金色の太陽が燃える朝に」でレコードデビューすると、1974年、バンド「上田正樹とサウス トゥ サウス」の活動を経て、1982年、シングル「悲しい色やね」が大ヒットを記録した、上田正樹(うえだ まさき)さん。 …