かまやつひろしの本名は?死因は?吉田拓郎と?元ザ・スパイダース堺正章と!
幼少期からジャズに親しみ、十代から音楽活動を開始された、「ムッシュかまやつ」こと、かまやつひろしさん。1963年に「ザ・スパイダース」の正式メンバーになると、「フリフリ」「バンバンバン」「あの時君は若かった」などの名曲を次々と生み出されました。
出身は?身長は?本名は?
かまやつさんは、1939年1月12日生まれ、
東京府(現在の東京都)のご出身、
身長170センチ、
体重57キロ、
血液型はB型、
本名は、
釜萢 弘(読み同じ)、
出身大学は、
青山学院大学、
ミュージシャンとしては、
「ムッシュかまやつ」
が正式な活動名だそうです。
音楽に親しんだ子ども時代
かまやつさんは、日本のジャズ界の、
草分け的存在として知られる、
ティーブ釜萢(かまやつ)さんの息子さんなのですが、
お父さんの影響で、
幼い頃から音楽に親しみ、
高校生の時、進駐軍が持ち込んだ、
カントリー&ウエスタンを、
アメリカ軍キャンプで演奏されるなど、
音楽活動をスタートされたそうです。
また、同時期、
六本木のカフェやクラブでジャズを聴き、
当時の一流文化人や芸能人が集まった、
イタリア料理店「キャンティ」
に通いつめられたそうで、
三島由紀夫さんや石原裕次郎さんから、
大きな刺激を受けられたそうです。
「ザ・スパイダース」で活動
そして、1962年には、
「ザ・スパイダース」を結成された、
田邊昭知さんに、その人柄と才能を買われ、
メンバー加入とメンバー探しを、
依頼されたそうで、
かまやつさんは、ゲストヴォーカルとして、
「ザ・スパイダース」に参加。
翌年の1963年には、
正式に「ザ・スパイダース」のメンバーになられ、
リードギターとヴォーカルを担当されたのでした。
「ザ・スパイダース」
「フリフリ」でレコードデビュー
当初、「ザ・スパイダース」は、
ラウンジミュージック(ムード音楽)を演奏し、
主に、歌手のバックミュージシャンとして、
活動していたのですが、
ちょうどその頃、ビートルズが、
世界中で一大ブームを巻き起こしていたことから、
その影響を受けられ、
かまやつさんと、田邊さんは、
ビートグループとしてバンドを再編成。
「ビートルズ」の楽曲をコピーし、
「マージンビート」「ブリティッシュ・ビート」
と呼ばれるサウンドを演奏しながら、
来日した海外ミュージシャンのバックバンドや、
前座としてステージに立ちつつ、
1965年5月に、ファーストシングル、
「フリフリ」でレコードデビューされています。
「フリフリ」
ちなみに、「フリフリ」のジャケット写真には、
かまやつさんが写っていないのですが、
かまやつさんが遅刻をして、
撮影時間に間に合わなかったからだとか。
(実は、かまやつさんが到着してから、再度、
全員で写真を撮ったそうですが、なぜか、
6人の写真が採用されたそうです。)
さておき、
続く翌年の1966年には、
2月「ノー・ノー・ボーイ」
4月「ヘイ・ボーイ」
7月「サマー・ガール」
と、立て続けに、かまやつさんの作品が、
シングルとしてリリースされ、
一部のコアな音楽ファンを虜にされるのですが、
当時の日本では、まだ、ムード歌謡曲が全盛の時代で、
爆発的なヒット、とはならなかったのでした。
ブレイク!
しかし、1966年9月、浜口庫之助さん作曲の、
7枚目のシングル「夕陽が泣いている」をリリースすると、
120万枚を超える大ヒットを記録。
「夕陽が泣いている」
そして、続く1967年には、
3月リリースの「太陽の翼」
5月リリースの「風が泣いている」
が、ヒットを記録し、
「風が泣いている」と「太陽の翼」
8月には主演映画が公開されるなど、
順調な活動が続くのですが・・・
解散
そんな「ザ・スパイダース」も、
夏頃になると、ライバルグループの出現などで、
観客数やレコードセールスの売上が落ち込み、
人気に陰りが見え始めます。
そして、1970年に、
かまやつさんが脱退すると、
翌年の1971年、ついに、
「ザ・スパイダース」は、
解散することとなったのでした。
吉田拓郎との出会い
ところで、かまやつさんは、
「ザ・スパイダース」脱退後は、
ソロに転身され、
1970年2月には、アルバム、
「ムッシュー/かまやつひろしの世界」をリリース。
「ムッシュー/かまやつひろしの世界」
その後、かまやつさんは、
原宿のバー「ペニーレイン」や、
六本木の飲み屋などで、よく顔を合わせていた、
フォーク歌手の吉田拓郎さんに、
積極的に接近されたそうで、
(かまやつさんいわく、
「拓朗に興味があった」そうです♪)
1974年には、デュエット曲、
「シンシア」をリリースされています。
ちなみに、この曲は、同時期、
アイドルとして活躍されていた南沙織さんに、
頼まれもしないのに、吉田拓郎さんが捧げた曲で、
話題となったそうです(^_^;)
ソロ曲「我が良き友よ」が大ヒット
かまやつさんは、その後も、
事ある毎に、ソロの曲を書いてくれるよう、
吉田さんに迫っていたそうで、
ある日、吉田さんから、
「ムッシュにぴったりの曲が出来たよ」
と、電話があったそうです。
そして、期待して、
会いに行ったかまやつさんですが、
吉田さんが弾き語りしてくれたのは、
下駄を鳴らして奴が来る
腰に手ぬぐいぶら下げて
学生服にしみ込んだ
男の臭いがやってくる
ああ夢よ 良き友よ
おまえ今頃どの空の下で
俺とおんなじあの星見つめて何想う
と、吉田さんが学生時代、応援団をしていた、
バンカラ(粗野で野蛮な振る舞いや言動)な先輩を、
モデルにして作られた曲だったそうで、
英米のカントリー、ウエスタン、ロックに、
慣れ親しんだかまやつさんには、
「昔は良かった」的な歌詞が気に入らず、
レコーディングでは、気が乗らないまま、
さらっと歌って終わらせたそうです。
しかし、1975年2月に、
この曲「我が良き友よ」がリリースされると、
たちまち、大ヒットを記録し、一世を風靡。
「我が良き友よ」
かまやつさんは、吉田さんの先見性に、
あたらめて、感心されたそうです。
数々のアーティストと共演
その後、かまやつさんは、
ソロ活動の傍ら、
1986年には、日本を代表する、
スタジオミュージシャンを集めたバンド、
「One Night Stand Brothers」や、
「One Night Stand Brothers」
アラン・メリルさん、大口ひろしさん、
ルイズルイス加部さんと「ウォッカ・コリンズ」を結成。
「ウォッカ・コリンズ」
1999年には、堺正章さん、井上堯之さんとともに、
「ソン・フィルトル」を結成されるなど、
「ソン・フィルトル」
様々なバンドで活動。
また、近年では、2009年に、
井上順さん、今井美樹さん、甲斐名都さん、堺正章さん、
THE ALFEE、TAROかまやつさん、トータス松本さん、
秦基博さん、一青窈さん、布袋寅泰さん、Microさん、
森山直太朗さん、森山良子さんなどとコラボした、
アルバム「1939~MONSIEUR(サンキュー ムッシュ)」をリリース。
「1939~MONSIEUR」
2013年以降は、KenKenさん、山岸竜之介さんと、
ユニット「LIFE IS GROOVE」を結成し、
活動されたのでした。
「LIFE IS GROOVE」
「肝臓がん」発覚も、堺正章の70歳記念ライブに参加
しかし、かまやつさんは、2016年5月、
検査で「肝臓がん」であることが発覚。
通院治療をされていたのですが、
同年8月、脱水症状で緊急搬送され、
そのまま検査入院となってしまいます。
それでも、かまやつさんは、
絶対復活するから心配しないでください!
それまでいろいろご迷惑おかけします!
と、メッセージを公開され、
同年10月、無事に退院。
12月には、「ザ・スパイダース」で、
ともに活動された堺正章さんの、
70歳記念ライブを観に訪れ、
当初は、客席で観ておられたものの、
堺さんの呼びかけに応じ、
飛び入りでステージに参加すると、
かつての名曲「サマー・ガール」を
お二人でデュエットされ観客を沸かせたのですが・・・
「サマー・ガール」を熱唱する、堺さんとかまやつさん。
死去
実は、先にがんが発覚した奥さんを、
かまやつさんは、献身的に看病していたそうですが、
2017年2月に入って、
かまやつさんの容態が悪化する中、
奥さんが他界。
ただ、かまやつさん自身も、
意識が混濁した状態だったため、
奥さんの死は知らされず、
その後、奥さんの後を追うように、
2017年3月、
都内の病院で亡くなったのでした。
さて、いかがでしたでしょうか?
戦後、日本のロックシーンを牽引し、
多くの後輩ミュージシャンに、
多大な影響を与えられたかまやつさんなので、
天国でも、奥さんが見守る中、
セールスに左右されない大好きな曲を、
思い切り、演奏されているかもしれませんね。
かまやつさんのご冥福をお祈り致します。