1971年、シングル「17歳」でデビューすると、たちまち大ブレイクするも、たった7年間の活動で芸能界を引退された、南沙織(みなみ さおり)さん。今回は、そんな南さんの生い立ちについてご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?
南さんは、1954年7月2日生まれ、
沖縄県宜野湾市のご出身(沖縄県嘉手納町生まれ)、
身長157センチ、
体重43キロ、
学歴は、
クライスト・ザ・キング・インターナショナル・スクール
⇒上智大学卒業
趣味は、
手芸、ボーリング、スポーツだそうです。
本名は?芸名の由来は?
南さんの本名は「内間明美(結婚後は篠山明美)」なのですが、デビュー当初、「南陽子」になるはずだった芸名は、作詞家・有馬三恵子さん(南さんのデビュー曲「17歳」を作詞)の、
彼女のイメージは陽子じゃなく、沙織じゃないかしら
という一言で、「南沙織」となったそうで、
明治大学文学部教授の齋藤孝氏によると、
陽子も素敵な名前ですが、どうしても「子」がつくと日本人の女性、という印象が強まります。反対に、「沙」を使うのは、当時としては新鮮な印象があり、「沙織」はどことなく外国人の名前に通じる響きです。
まさに、「南の島からやってきた少女」というイメージを引き立てた大きな要素だと思います
とのことでした。
ちなみに、南さんは、カトリック信徒のため、シンシア・ポーリー(Cynthia・Paule)というクリスチャンネームもお持ちなのだそうです。
ハーフ?
南さんは、デビュー当時、「フィリピン人の父親と日本人の母親のハーフ」と紹介され、出身地は、お母さんの故郷である「奄美大島」や「鹿児島県」とされていたそうですが、実際には、南さんの両親はともに日本人です。
ただ、両親は離婚し、お母さんが基地で働くフィリピン系の人と再婚されているので、義理のお父さんはフィリピン人ということになります。
また、お母さんが再婚後に誕生した妹さんと弟さんは、まさにフィリピン人とのハーフなのですが、南さんは、お母さんとは日本語で、義理のお父さん、妹さん、弟さんとは英語で会話されていたのだそうです。
ちなみに、出身地が変更されていた理由は不明ですが、当時、沖縄はまだアメリカの領土だったため、所属事務所が南さんを売り出すのに、印象が良くないと考えたのかもしれません。
(「ハーフはOKでも沖縄はNG」というのは、当時の日本の世相を現しています。)
幼少期は普天間飛行場付近を3度も引っ越していた
さて、南さんは、沖縄県嘉手納町(かでなちょう)で誕生しているのですが、4歳の時に、宜野湾市(ぎのわんし)に引っ越されると、その後、宜野湾市内で3回も引っ越され、3回とも、普天間飛行場の3つのゲートの近所だったそうで、
南さんによると、最初に移り住まれたのは、大山ゲートの近くで、
1号線(現在の国道58号)のすぐそばで、戦車や軍用車が普通に走っていた
(1号線は、6車線と道幅が広く、米軍の非常用滑走路を兼ねていたそうです)
2番目に引っ越されたのは、小学4年生の時で、市役所のある中心部に近い野嵩(のだけ)ゲート付近、
3番目に引っ越されたのは、中学生の時で、佐真下(さました)ゲートの目の前だったそうです。
また、南さんは、後に、インタビューで、
当時の実家にはクーラーもなく、窓を開けて暮らしていたから、ジェット機の爆音は生活の一部でした
と、明かされています。
(佐真下に引っ越したのは、学校が近かったからだそうですが、当時、沖縄はベトナム戦争の出撃基地となっていたため、戦場帰りの米兵による犯罪が多発しており、娘の一人歩きを心配したお母さんの配慮だったそうです)
幼少期からバイリンガルだった
そんな南さんは、フィリピン人である義理のお父さんが、第二次世界大戦後に沖縄に来たアメリカ合衆国の軍属だったため、PX(米兵向けの売店)やハリウッドの最新作を上映する映画館に出入りできる身分証明書を持っているなど、
当時、沖縄の人々が羨望(せんぼう)の眼差しで眺めていた、フェンスの向こう側にある豊かな生活の恩恵を受けて育ったそうです。
(また、幼稚園の時から、「クライスト・ザ・キング・インターナショナル・スクール」(米軍基地で働くフィリピン人が中心となって1953年に設立されたカトリックの学校)へ通い、英語も流暢に話すバイリンガルだったそうです。)
そのため、南さんは、1970年に沖縄で起きた「コザ暴動(騒動)」で、初めて、沖縄の人々と自分の立場の違いを知ったのだそうです。
(※「コザ暴動(騒動)」とは、アメリカ施政権下の沖縄のコザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件)
「南沙織が若い頃はデビュー曲「17歳」で大ブレイクしていた!」に続く