1973年に、ジャイアント馬場さんの弟子になられた大仁田厚(おおにた あつし)さんは、馬場さんの付き人をしながら厳しい練習を重ね、1974年4月、後楽園ホールでデビュー。そして、1981年に、念願だった海外修行が決まると、旧西ドイツを経てプエルトリコに転戦し、渕さんとタッグを組んだヒール役で人気を獲得。1982年3月には、ついに、アメリカ・ノースカロライナ州シャーロットで、「NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座」を奪取したのでした。
「幼少期は?父は?中学で新聞配達!高校中退し日本1周?」からの続き
ジャイアント馬場の付き人に
1973年10月、全日本プロレスの蔵前国技館での試合の前に、
お父さんとお父さんの知りあいのプロモーターに連れられ、
大仁田さんが控室を訪ねると、そこにいたのは、ジャイアント馬場さん。
身長209センチ、体重145センチの馬場さんは、
まるで「ぬりかべのような巨人」で、大仁田さんは、
その体の大きさには身震いされたそうですが、
馬場さんから、
「おぉ、坊や、お前、やれるか」
と、声をかけられると、
すぐに、
「はい。やりたいです」
と返事をしたそうで、
そのたった一言で全日本プロレスへの入門が決定。
当時、全日本プロレスは弟子をとっておらず、
大仁田さんは、事実上、「新弟子第一号」となったのでした。
(左から)ジャイアント馬場さん、大仁田さん、アントニオ猪木さん。
ジャイアント馬場とのエピソード
そして、この日から、大仁田さんは馬場さんの付き人となり、
馬場さんの身の回りの世話をすることになります。
馬場さんは、普段は、物静かな読者家で、
口うるさくもなかったそうですが、
たったひとつ、「ウソをつくな」ということだけは、
言われていたそうで、
地方巡業での興行売上5000万円が入ったバッグを、
ホテルに忘れてしまった時でさえ、正直に自分のミスを伝えると、
叱られることはなかったそうです。
(その後、バッグは無事戻ってきたそうです)
ただ、地方巡業中、大仁田さんが、
馬場さんの試合用の赤いタイツを忘れてしまい、
馬場さんと同じ色のタイツを履いていた外国人選手に頼んで借り、
それを馬場さんに渡したことがあったのですが、
その場では、馬場さんは、黙ってそのタイツをはいて試合に出られたため、
大仁田さんは、バレなかったと思ってホッとされたそうですが、
試合後、宿泊先の旅館で馬場さんから呼び出されると、
「今日のタイツは誰のだ!」
と、大声で怒鳴られ、頭を殴られたそうです。
しかし、この時でさえ、馬場さんは人前で叱ることはせず、
誰もいない場所に呼び出されてのことだったそうで、
大仁田さんは、そんな馬場さんを、
人前で怒るような人じゃなかった。
入ったばかりの16歳のガキにもそんな気遣いを馬場さんはしてくれた。
体だけじゃなくて心も大きい人だった。
と、語っておられます。
そして、その後、大仁田さんは、またまた、
巡業の移動中に馬場さんが着るスーツを忘れてしまいます。
ただ、前回のタイツの件があったことから、
この時は素直に謝られると、
馬場さんは、
「そうか」
と一言だけ返され、
その翌日から巡業が終わる日まで、ずっと、
全日本の真っ赤なジャージを着て移動されたそうで、
大仁田さんは、ミスをした自分を叱ることなく、
ジャージ姿で移動する馬場さんを毎日見るたびに、
自分が情けなくなり、頭を殴られた時よりかえって辛く、
この経験から、
「もう2度と失敗はしない」
と、心にかたく誓ったのだそうです。
ジャイアント馬場さんと大仁田さん
後楽園ホールでデビュー
こうして大仁田さんは、馬場さんの付き人を務めながら、
デビューに向けて、厳しい訓練を重ねていると、
入門から半年が経とうとした時、
馬場さんに呼ばれ、
「お前、試合できるか?」
と聞かれたそうで、
「はい。できます」
と答えられ、デビュー戦が決定。
大仁田さんは、1974年4月、16歳の時、
後楽園ホール大会でデビューを果たされたのでした。
(全日本プロレスの新弟子第1号として注目された大仁田さんでしたが、
入門以来、公私共にお世話になった、対戦相手の佐藤昭雄さんの前に、
何もできないまま敗れてしまっています。)
「若手三羽烏」
また、この年には、新たに、渕正信さんと、
薗田一治(後のハル薗田、マジック・ドラゴン)さんが入門し、
練習や試合で競い合いながら切磋琢磨したそうで、
大仁田さんら三人は、全日本の「若手三羽烏」
と呼ばれ、注目を集めるように。
ただ、2年後の1976年に、
大相撲を引退した、元幕内の天龍源一郎さんが、
全日本プロレス団に入団すると、
馬場さんは、天龍さんをトップスターに育てるべく、
渡米させ、米国デビューさせるなど、破格の待遇で迎え、
さらに、「若手三羽ガラス」と呼ばれた、
大仁田さん、渕上さん、薗田さんの中で、
薗田さんがいち早く、海外修行に行かれたそうで、
海外に行きたかった大仁田さんは、
やるせない思いを抱えながらリングに立ち続けたのでした。
ちなみに、馬場さんが天龍さんを海外に行かせた時、
大仁田さんは、天龍さんへの嫉妬から、
馬場さんにプロレスをやめたいと言ったそうですが、
それに対して、馬場さんは、
おぉ
のたった一言だけ。
その後、気まずい沈黙の時が流れ、
馬場さんから、辞めてどうするんだと聞かれ、
大仁田さんが、思いつきで、
料理が好きだからフランスにでも修行に行って、
フランス料理のコックになります。
と言われると、
馬場さんは、
そうか。ところでおい、
オレとフランス料理とどっちか取れ。
と言われたそうで、
さすがに、大仁田さんはしばらく絶句し、
すみません、よろしくお願いします。
と言うしかなかったそうです♪
大仁田さんは、
天下のジャイアント馬場が18歳の子供にそこまで言うかと今も思うよ。
すげぇ言葉だったなぁと思うし、改めて馬場さんはすごい人だったと思うよね。
と振り返っておられました。
念願の海外修行(旧西ドイツへ)も・・・
そして、1981年、ついに大仁田さんも、
旧西ドイツへの海外修行が決定します。
ところが、旧西ドイツでの試合中、
場外乱闘騒ぎが起き、そのことが原因で、
大仁田さんはリングアナウンサーとトラブルになってしまい、
旧西ドイツでの試合に嫌気がさしてしまったそうで、
大仁田さんは、その後、
プロレスラーのテリー・ファンクさんに電話をし、
テリーさんの紹介でプエルトリコに転戦。
プエルトリコでは、渕さんと再会し、
「ミスター・オオニタ」「ミスター・フチ」
のリングネームでタッグを結成されると、
ヒール役を演じ、たちまち人気を博したのでした。
ただ、1週間に4試合という契約だったにもかかわらず、
1週間に7~8試合も入れられてしまったことから、
大仁田さんがプロモーターに文句を言ったところ、
その後、トイレに連れて行かれ、
7、8人からリンチに。
大仁田さんは、命からがら逃げ延び、
再びテリーさんの紹介で、
今度はテネシー州に転戦されたのでした。
NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を奪取
そんな大仁田さんは、テネシー州では、渕さんとのコンビで、
ジェリー・ローラー&ビル・ダンディーやロックンロール・エクスプレスと、
「AWA南部タッグ王座」を争って敗れてしまうのですが、
1982年3月、ノースカロライナ州シャーロットにおいて、
チャボ・ゲレロさんの持つ「NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座」
に挑戦されると、見事、チャボさんを「回転エビ固め」で破り、
タイトル奪取を成し遂げられます。
(日本に帰国する前にメキシコ遠征を行い、サングレ・チカナさんに、
一時、王座を奪われますが、すぐに奪回されています)
そして、同年5月、周囲の期待を一身に受け、
大仁田さんは、凱旋帰国されたのですが・・・
「タイガーマスクと!左膝の大けがで引退!女子プロコーチで復帰!」に続く
NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を奪取した大仁田さん。
(左から)ジャイアント馬場さん、天龍源一郎さん、大仁田さん、テリー・ファンクさん。