プロレスラーとしては、「新日本プロレス」を立ち上げるほか、異業種格闘技戦を敢行するなど一時代を築き、政治家としても、参議院議員や「スポーツ平和党」代表を務めるなど、精力的に活動し、「元気があれば何でも出来る」といつもポジティブな、アントニオ猪木(あんとにお いのき)さんですが、少年時代は酷い境遇を過ごしたといいます。
年齢は?出身は?身長は?本名は?イスラム教徒!
アントニオ猪木さんは、1943年2月20日生まれ、
神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現・鶴見区岸谷)の出身、
身長182センチ(現役当時は189センチ)、
体重95~96キロ、
血液型はAB型、
本名は、
猪木寛至(いのき かんじ)、
学歴は、
横浜市立寺尾中学校卒業、
ちなみに、猪木さんは、1991年にイラクのシーア派聖地カルバラーにてイスラム教に改宗されており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン・イノキ」です。
5歳の時に父親が他界し実家は倒産
猪木さんの両親は、石炭問屋を営んでいたのですが、猪木さんが5歳の時、お父さんは病気で他界。しかも、追い打ちをかけるように、エネルギー源が石炭から石油に変わり、実家の石炭問屋は倒産。猪木さん一家は困窮を極めます。
その後、猪木さんが13歳の時、猪木さん一家(おじいさん、お母さん、兄弟たち)は、貧困から抜け出せるかもしれないとの希望から、当時、国が政策として推し進めていた、ブラジルへの移住を決意するのですが、今度は、渡航中の船上で、おじいさんが毒性のある未熟なバナナを食べて他界。
猪木さんは、生前、自分をかわいがってくれたおじいさんが言っていた、
乞食になっても世界一の乞食になれ
との言葉を胸に、おじいさんの遺体を日の丸国旗にくるんで海に流したのだそうです。
(戦後、日本は、不景気で失業者が溢れていたため、ブラジルに行けば広大な土地と安住の地があると、政府がブラジルへの移住を推進していました)
少年時代はブラジルで奴隷労働の日々
そして、ブラジルに到着した猪木さんは、サンパウロのコーヒー農園で働くことになったのですが・・・
そこでのコーヒー豆の収穫を中心とした仕事は、朝の5時から夕方の5時までという長時間労働で、作業が終わり、与えられた小屋に戻って、着替えるためにTシャツを脱ぐと、Tシャツに染み込んだ汗の塩分で、Tシャツが固まって立つほどの重労働だったそうです。
そのうえ、作業のたびに、手はずるむけて血まみれになり、痛みをこらえながらの過酷なものだったそうですが、契約は1年半で、その間は何があってもここの農園で働き続けなければならない、との契約を結んでいたため、逃げることは許されず、ひたすら耐えるしかなかったのだそうです。
「アントニオ猪木は力道山から壮絶な虐待を受けていた!」に続く