沖縄のインターナショナルスクールに通うバイリンガルで、キリスト教の家庭で育った、南沙織(みなみ さおり)さんは、他のアイドル歌手にはないバックグラウンドと、沖縄の太陽を連想させる明るい雰囲気から、デビューするやいなや、たちまち大ブレイクを果たします。

「南沙織は沖縄育ちで幼少期からバイリンガルだった!」からの続き

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もともとは琉球放送の番組でアルバイト

南さんは、もともと、地元・沖縄の琉球放送の、視聴者参加型ののど自慢テレビ番組「オキコワンワンチャンネル」「100万人の大合戦」などで、アシスタントのアルバイトをしていたそうですが、

琉球放送のテレビ番組にゲスト出演していた男女デュオ「ヒデとロザンナ」のマネージャーが、南さんの写真を東京に持ち帰ると、新たな人材を探していた「CBSソニー」関係者の目に止まり、急遽、東京に呼び寄せられることになったそうです。

ファーストシングル「17歳」が大ヒット

こうして南さんは、1971年春、日本に返還される直前の沖縄から、パスポートを持ってお母さんとともに上京されたそうですが、そのわずか3ヶ月後の6月1日、ファーストシングル「17歳」でデビューすると、いきなり、レコードセールス54万枚を超える大ヒットを記録。

同年末の「第13回日本レコード大賞」では新人賞を受賞するほか、「第22回NHK紅白歌合戦」にも出場を果たします。


「17歳」

そして、その後も、

1971年10月「潮風のメロディ」
1972年2月「ともだち」
     6月「純潔」
     9月「哀愁のページ」

1973年1月「早春の港」
     5月「傷つく世代」
     7月「カリフォルニアの青い空」
     8月「色づく街」
     12月「ひとかけらの純情」

1974年3月「バラのかげり」
     6月「夏の感情」
     9月「夜霧の街」
     12月「女性」
1975年4月「想い出通り」

と、立て続けにヒットを連発すると、1971年と1972年の年間売上実績第1位を獲得するほか、1975年8月にリリースした「人恋しくて」では、この年の「第17回日本レコード大賞」の歌唱賞を受賞と、

南さんは、瞬く間にスターの座へと駆け上り、同時期にデビューされた、小柳ルミ子さん、天地真理さんらとともに、「新三人娘」と呼ばれる程の人気を博したのでした。

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吉田拓郎ほか多数の芸能人が南沙織のファンだった

ところで、沖縄のインターナショナルスクールに通う流暢な英語を話すバイリンガルで、「シンシア」というクリスチャンネームまで持つ南さんは、一般人だけではなく、当時のミュージシャン、文化人、著名人などにも大人気だったそうで、

映画監督の羽仁進さんや作家の大岡昇平さんが「サオリスト」を公言するほか、泉麻人さん(作家)、泉谷しげるさん(ミュージシャン)、岩崎宏美さん(歌手)、やくみつるさん(タレント)、さくらももこさん(漫画家)、吉田拓郎さん(ミュージシャン)らが南さんのファンだったそうですが、

吉田拓郎さんにいたっては、もともと、テレビに出ないスタンスだったのが、南さんとデュエットしたい一心で、1974年、「シンシア」(南さんのクリスチャンネーム)という曲まで作り、南さんとテレビでの共演を実現させておられます♪

さらに、吉田さんは、1974年、自身のラジオ番組「拓郎のオールナイトニッポン」に南さんをゲストとして迎えると、「ミニスカートとロングスカートどちらが好きか」に始まり、プライベートに関することや、シモネタ&放送禁止用語の連発で、現在ならセクハラと言われてもおかしくないような話題全開。終始ノリノリだったそうですが(笑)、

南さんも、「拓郎さんはおもしろい」「拓郎さんなら変な話も許せる」と、とても打ち解けた雰囲気だったそうで、以来、自身のライブでも吉田さんの話をするほか、吉田さんの自宅へも遊びに行かれるなど、交流を深められたのだそうです。

ちなみに、関西大学社会学部教授の永井良和氏は、その理由について、

自分の意思で行動する強さも持っていた沙織さんは、芸能界に違和感を覚える部分も多かった。そのことが、拓郎さんと相通じたのかもしれません

と、語っており、深い部分で共感する何かがあったのかもしれませんね。

「南沙織は昔人気絶頂期に引退していた!」に続く

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