11歳で新派・伊村義雄さんの一座に入門し、18歳の時には100日間通い詰めて早川雪洲さんに弟子入りを許されると、やがて、喜劇俳優として頭角を現し、その後、清水金一さんとのコンビで全国的な人気を博した、堺駿二(さかい しゅんじ)さん。
今回は、堺駿二さんの、生い立ち(子役時代)、若い頃から他界されるまでの経歴を時系列でご紹介します。

堺駿二のプロフィール
堺駿二さんは、1913年12月10日生まれ、
東京府東京市本所区太平町1丁目(現・東京都墨田区太平1丁目)の出身だそうです。
堺駿二の本名は?芸名の由来は?
堺駿二さんの本名は「栗原正至」というそうですが、芸名の「堺駿二」は、
師匠・早川雪洲さんが、
雪洲と栗原の間に境をつけたい
と思っていたことから、
名字は「堺」、名前は雪洲の「洲(しゅ)」から取って「駿二」と名付けたそうで、堺駿二さんは、この「堺駿二」という芸名を生涯名乗り続けたそうです。
堺駿二は11歳の時に新派の伊村義雄の一座に入門していた
堺駿二さんは、桶屋を営むお父さんのもと、8人きょうだいの末っ子(3男)として誕生したそうですが、9歳の時にお父さんが他界したそうで、
その後、11歳の時、お芝居が好きだったお母さんが、公園劇場を中心に活躍していた新派の伊村義雄さんに頼み、一座の子供部に入ったそうです。
ただ、伊村義雄さんは、当時の雑誌の人物評で、
大の癇癪(かんしゃく)持ちで 幹部であろうが太夫元であろうと関わらずに叱咤(しった)するほどの変人である
と、評されたこともあるほど気性の激しい人だったようで、
台本の覚えも仕草も悪かった堺駿二さんは、伊村義雄さんに殴られたこともあったといいます。
堺駿二は18歳の時に早川雪洲に弟子入りを許されていた
その後、堺駿二さんは、「小村正雄」を名乗り、子役として活動を開始すると、やがて、殺陣や女形などを上手に演じこなすようになるなど、才能を開花したそうで、
伊村義雄さんからは養子になるよう請われたそうですが・・・
「伊村義雄一座」に入って8年目の1931年、18歳の時、アメリカから帰国した俳優・早川雪洲(はやかわ せっしゅう)さんの舞台を観ると、居ても立っても居られなくなり、「伊村義雄一座」から逃亡してしまったといいます。
(早川雪洲さんは、当時、サイレント映画時代のハリウッドで、日本人でありながら、スター俳優として一世を風靡していました)
そして、どうしても早川雪洲さんの弟子になりたいと思った堺駿二さんは、浪曲師だった兄・港家小柳丸(みなとや こりゅうまる)さんの浪曲家仲間で、早川雪洲さんの友人だった、浪曲師・東家楽燕さんにすがりつくと、
早川雪洲さんは弟子は取らない主義だったそうですが、堺駿二さんが、早川雪洲さんのところに100日間通い詰めると、1932年、ついに、早川雪洲さんの一座に入ることを許されたのだそうです。

早川雪洲さん。
堺駿二は早川雪洲のアドバイスで喜劇俳優に転身していた
こうして、早川雪洲さんの一座に弟子入りした堺駿二さんは、早川雪洲さんの付き人も兼ねていたそうですが、
ある時、早川雪洲さんから、
君は まともな役より ちょっと足らない役どころの方がいいねぇ
と、言われたそうで、
以降、堺駿二さんは、早川雪洲さんから言われたキャラクターを自身の持ち味として確立していったそうです。
堺駿二は23歳頃に「ヤパンモカル劇団」に入団し清水金一とのコンビで人気を博していた
その後も堺駿二さんは、早川雪洲さんの一座で舞台を中心に活動すると、早川雪洲さんと原節子さんが主演の日独合作映画「新しき土」(1937年公開)の端役(エキストラ)で映画デビューも果たしているのですが、
1936年頃には、師匠である早川雪洲さんが、映画の撮影のため、フランス・パリに行くことになり、早川雪洲さんとは別れることになってしまったといいます。
ただ、堺駿二さんは、浅草オペラ館の「ヤパンモカル劇団」(「やっぱり儲かる」が由来)に入り、劇団の中心役者だったシミキンこと、清水金一さんとコンビを組むと、
ストーリーとはまるで関係ないアドリブによるギャグ連発のドタバタ劇で人気を博したのでした。
堺駿二は27歳の時に清水金一が映画界へ移籍したことで舞台の仕事を失っていた
また、堺駿二さんは、プライベートでも、「松竹少女歌劇団」の新人ダンサーだった幹千代子(芸名:三浦たま子)さんと結婚し、子供が誕生するなど、公私ともに順調だったそうですが・・・
1940年、27歳の時には、清水金一さんが、突然、舞台を辞め、映画界に移ると言い出したそうで、堺駿二さんは、仕事を失ってしまったといいます。
堺駿二は29歳の時に吉本興業で再び清水金一と組み「新生喜劇座」を結成し全国的な人気を博していた
そこで、堺駿二さんは、伊東の温泉旅館「暖香園」に番頭として就職したそうですが、長続きせず、山梨県富士吉田市に暮らす親戚を頼って移り住み、商店街で玩具屋を経営したそうですが、これも長続きしなかったそうです。
そんな中、1942年、「東宝」と契約の切れた清水金一さんから、浅草で再び舞台を始めるから一緒にどうかと誘われたそうで、
清水金一さんには一度裏切られていることから、迷ったそうですが、
役者とて人間なのだから好き嫌いはある。こんな相手とはやりたくないとも思う。しかし一たび舞台に立ったら好き勝手なことは言えないはずだ。お客のためにベストをつくすことそれが役者の本筋ではないだろうか。
と、考え直し、この誘いを受けたそうで、
堺駿二さんは、清水金一さん、田崎潤(当時は田中実)さんとともに、「東京吉本」(吉本興業の傘下)の「浅草花月劇場」で「新生喜劇座」を結成し、清水金一さんとコンビを組んで舞台に出演すると、たちまち全国的な人気を博したのでした。

「シミキンの拳闘王」より。(左から)幾野道子さん、シミキンこと清水金一さん、堺駿二さん。
堺駿二は30歳の時に田崎潤と共に「新生喜劇座」を脱退し「劇団たんぽぽ」に加入していた
その後、堺駿二さんたちは、吉本から松竹に移籍したそうですが、清水金一さんのワンマン座長ぶりから、早くも1943年、30歳の時には、田崎潤さんとともに「新生喜劇座」を脱退したそうで、
同年には、「松竹少女歌劇団」の大スターだった水の江瀧子さんが結成した「劇団たんぽぽ」に加わったといいます。
堺駿二は33歳の時に「松竹大船」に入社し短編映画「破られた手風琴」で主演
また、翌年の1944年4月には、赤紙が届き、横須賀海兵団に配属されたそうですが、戦地には行くことなく、1945年、横須賀で太平洋戦争の終戦を迎えたそうで、
復員後は、すぐに「劇団たんぽぽ」の舞台に立ち、役者としての活動を再開したのだそうです。
(堺駿二さんは、赤紙が届いた際、奥さんと3人の子供たちのことを心配したそうですが、水の江瀧子さんが、堺駿二さんの家族に、劇団員としてお給料を払い続けることを申し出てくれたそうで、家族は路頭に迷わずに済んだのだそうです)
そして、翌年の1946年、次男の堺正章さんが誕生し、子供が4人となると、舞台から映画界に転身したそうで、同年(堺駿二さん33歳の時)には、映画会社「松竹大船」に入社すると、いきなり、短編映画「破られた手風琴」で主演に抜擢されたのでした。
(戦後、人々の娯楽は舞台から映画に移っており、映画の方が稼げると思ったのかもしれません)

「破られた手風琴」より。
(短編映画の主演は、生涯を通じてこの一作のみ。ただ、1956年には大映の中編映画「運ちゃん物語」でも主演を務めています)
堺駿二は42歳~51歳頃には喜劇映画のブームに乗りおばあちゃん役で人気を博していた
その後、堺駿二さんは、1952年にはフリーとなると、数多くの映画、舞台、テレビドラマで、美空ひばりさんや大友柳太朗さんなどのスターを支える名脇役として活躍しているのですが、
特に、1955年~1964年(堺駿二さん42歳~51歳)頃は、喜劇映画のブームに乗って、女装してのおばあちゃん役で人気を博し、
1953年には20本、1954年には18本、1955年には25本もの映画に出演するなど、映画出演本数は250本にも上る超売れっ子の俳優となっており、毎週のように、堺駿二さんが出演する映画が公開されている状態だったといいます。
(そのため、堺駿二さんは、常に、一度に12~13冊もの台本を持ち歩いていたそうです)

おばあちゃん役を演じる堺駿二さん。
堺駿二の死因は?
しかし、堺駿二さんは、1968年8月3日、「新宿コマ劇場」公演のリハーサルの際、舞台から落下して腰を強打し、歩くのも困難なほどの大ケガを負ってしまったといいます。
それでも、堺駿二さんは、周囲の制止を振り切り、公演を続行したそうですが・・・
それから1週間後の1968年8月10日午後9時10分頃(堺駿二さん54歳の時)、納涼コマ喜劇会の舞台「爆笑!大暴れ捕物帖」の本番中(夜の部の終了近くのこと)、
息子(森川信さん)が、妹が殺されたにもかかわらず、なかなか仇討ちできずに口惜しがる様子を見かねて、
私がやってやる!
という捨て台詞を残し、舞台袖に下がった瞬間、
脳出血で倒れ、間もなく、他界されたのだそうです。
ただ、森川信さんらほかの俳優は、母親役だった堺駿二さんの芝居中のアドリブだと思い、そのまま舞台を続行したそうで、観客2500人も堺駿二さんが急死したことに気がつかなかったといいます。
(堺駿二さんは、この日、昼の部でも、劇団仲間と冗談を言い合うなど、普段と変わりがなかったほか、夜の部の休憩時間には「梅酒を飲み過ぎた」と言っていたそうですが、普段よりも少し顔が赤い程度で、特段変わった様子はなかったといいます)
ちなみに、(「ザ・スパイダース」の公演中だった)次男の堺正章さんが病院に駆けつけた時には、すでに、堺駿二さんは亡くなっていたそうで、
堺正章さんは、
あれで舞台を降りていれば、もっと長生きできた父親だと思うけど・・・無理しなきゃ、もう少し長く生きられたかな
舞台の上で役者は死ねたら本望だとか言うけど、うちの父親は最後にそれを舞台の上でやって、皆さんにお別れをしたのかな
と、亡きお父さんを偲んでいます。
「堺駿二(堺正章の父)の前妻は幹千代子(堺正章の母)!再婚相手は?他の子供は?」に続く
![]()
子役から舞台を中心に活動を始めると、戦後は映画界へ転身して、コミカルな演技で名脇役として活躍し、特におばあちゃん役で親しまれた、堺駿二(さかい しゅんじ)さん。 そんな堺駿二さんは、プライベートでは、結婚を2回、死別を1回しているといいます。 今回は、堺駿二さんの、前妻(最初の妻)幹千代子(三浦たま子)さん、再婚相手(2番目の妻)、次男の堺正章さんほか子供について、ご紹介します。








