1962年、16歳の時、「ザ・スパイダース」に加入し、1965年5月には、ファーストシングル「フリフリ」でレコードデビューすると、当初は、一部のコアなファンには支持されるも、ヒットしなかったという、堺正章(さかい まさあき)さんですが、自分たちのスタイルを曲げて、大ヒットを飛ばします。
「堺正章の若い頃は井上順らと「スパイダース」で活動していた!」からの続き
ヒットメーカー浜口庫之助にヒット曲作りを依頼する
一部のコアな音楽ファンからは高く評価されるも、歌謡曲が全盛だった当時の日本では、なかなかヒット曲を出すことができなかった、堺さんら「ザ・スパイダース」ですが、
「ザ・スパイダース」設立者の田邊昭知さんは、なんとかヒット曲を出したいと考え抜いた末、これまでやってきた、「ビートルズ」などを真似て自分たちで曲を作り、演奏するというスタイルをやめ、外部のプロの作曲家を起用しようと、ヒット曲作りを模索します。
そして、ヒットメーカーの浜口庫之助さんに新曲を依頼するのですが・・・
しばらくして、浜口さんから提供された曲「夕陽が泣いている」を聴いたところ、まるで歌謡曲。これまで自分たちが演奏してきたブリティッシュ・ロックとはかけ離れたものだったため、メンバー全員が絶句したそうです。
ただ、一流のヒットメーカーである浜口さんの作品に文句を言う訳にもいかず、なんとか、「ザ・スパイダース」らしいアレンジを加えることで、完成にこぎつけたのだそうです。
しかし、そんな堺さんたちメンバーの気持ちとは裏腹に、1966年9月、7枚目のシングルとして「夕陽が泣いている」をリリースすると、売上120万枚を超える大ヒットを記録し「ザ・スパイダース」は、一躍スターダムに。
「夕陽が泣いている」
また、同時に、歌謡曲調のメロディであるこの曲を抒情的に歌い上げる、堺さんの歌唱力の高さが広く世間に知られることとなったのでした。
ちなみに、堺さんは、「ザ・スパイダース」が、たちまちブレイクした時のことについて、
ヨーロッパにいる間に「夕日が泣いている」に火がついたの。帰ってきたら空港にメンバーを待つファンが押し寄せてきて、もうコンサート状態みたいだった。でも、自分なりに声援を分析すると「(井上)順ちゃ~ん!」が多かったね
(井上さんの人気は)すごかったよ、和製ポール・マッカートニーって言われてたんだから。これじゃ俺はやばいぞと思って、笑いの世界に引き込んだんだよ(笑)。「どうやってやるの?」っていうからコケ方を教えた。そしたらどんどん人気が落ちていったの(笑)
と、語っておられます♪
「ザ・スパイダース」の人気が低迷
そして、その後も、「ザ・スパイダース」は、「太陽の翼」(1967年3月)、「風が泣いている」(1967年5月)を立て続けにリリースすると、次々とヒットとなるのですが・・・
「太陽の翼」
「風が泣いている」
同年、ライバルグループだった「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」が、シングル「ブルー・シャトウ」を発売すると、150万枚を売り上げる大ヒットを記録するほか、
「ザ・タイガース」「ザ・カーナビーツ」「ザ・ジャガーズ」といった、若手グループが台頭し、「ザ・スパイダース」の人気も次第に陰りが見え始めます。
「ザ・スパイダース」が解散
そして、1969年夏頃から、ますます、観客数の落ち込みがひどくなると、もともと、メンバーそれぞれの人気が高かったこともあり、次第にソロ活動へと転向していくのですが、
特に人気の高かった堺さんと井上順さんのスケジュールが過密状態だったことから、「ザ・スパイダース」は2人を除く5人での活動が多くなっていき、
(その後、中心メンバーの田邊さんとムッシュかまやつさんも脱退されています)
ついに、1971年1月、「ザ・スパイダース」は解散することとなったのでした。
「堺正章の若い頃は歌手として「街の灯り」が大ヒットしていた!」に続く
「ザ・スパイダース」