1960年代「ザ・ビートルズ」のメンバーとして一世を風靡すると、その後も、半世紀に渡り、音楽活動を続けられている、ポール・マッカートニーさん。そんなポールさんの、生い立ちからブレイクに至るまでの経緯について調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

ポールさんは、1942年6月18日生まれ、
イングランド・マージーサイド州リヴァプールのご出身、


幼い頃のポール・マッカートニーさん

身長180センチ、

本名は、ジェイムズ・ポール・マッカートニー(James Paul McCartney)、

学歴は、
Liverpool Institute High School for Boys卒業(中学~高校)、


少年時代のポール・マッカートニーさん

ちなみに、ポールさんは、ベース、ギター、ドラムス、パーカッション、ピアノ、キーボード、シンセサイザー、ブルースハープ、ウクレレ、シタール、マンドリン、バンジョー、フリューゲルホルン、トランペット、フルートなどの楽器が弾きこなせるそうです。

生い立ち

ポールさんは、アマチュアながらプロ級のジャズピアノの腕を持つお父さんと、助産師だったお母さんのもとに誕生すると、

お父さんに、

ピアノの弾き方を覚えたら色んなパーティーに呼ばれるぞ

と、言われて、お父さんの弾くジャズやスタンダード・ナンバーを聴いて育ったことから、

ラジオもテレビもレコードプレイヤーも珍しかった時代、みんながピアノを囲んで演奏を聴きながら、お酒を飲んだり、歌ったりしながら、とても豊かな時間を過ごされたそうです。

また、リヴァプールの港には、アメリカ・ニューオーリンズからブルースのレコードを持ってくる船乗りたちがいたほか、アフリカ音楽やカリブ音楽も街のあちこちで流れていたことから、ポールさんは、幼い頃から、自然と音楽を耳にする、音楽的に恵まれた環境で育たれます。

ただ、ポールさんが育ったリバプールは、戦時中に波止場地域が敵機の空襲によって壊滅状態となっており、生活はそれほど豊かではなかったため、お父さんは家族を養うために地元の工場で働き、お母さんは助産師をしながら家計を助けていたそうです。

ちなみに、ポールさんは、後に、

どれだけ貧乏な家庭でも、たいていの家にはピアノがあったんだ。父親から聞いた話なんだけど、うちにあったやつはブライアン・エプスタインの親から買ったものだそうだ。

戦争の思い出を消すために、みんな前向きな曲を求めていたんだ。僕はそんな中で育ったんだよ。

最初にポップミュージックを聴いたのはBBCのラジオだ。うちにはレコードプレイヤーがなかったからね。父親は鉱石ラジオを作るのが好きだった。戦争が終わったばかりの頃は、手製の鉱石ラジオをあちこちで見かけたものさ。

ある日、父親が家庭用の素敵な大型ラジオを買って、僕と弟は床にぺたんと座ってそれを聴いていたんだ。そしたら父親は(やっぱり戦争の余剰品で)子供たちのためにヘッドホンをこしらえてくれてね。

その電線を寝室までのばして、ベッドの中でも聴けるようにしてくれたんだ。当時、一番人気があったのは、ファミリー・フェイヴァリッツ(家族のお気に入り)”というリクエスト番組だった。パットブーンの”I’ll Be Home”が大人気だったのを憶えてるよ

と、語っておられました。

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14歳の時にロックンロールに目覚める

そして、1956年9月、ポールさんが14歳の時、初めて家にテレビが来たそうですが、

大変な惨状です、テディ・ボーイ(不良)とロッカーたちがロンドンの映画館で暴れまわりました。すべての元凶はこれです!ワン・ツー・スリー・オクロック・フォー・オクロック・ロック!

と、映画「暴力教室」が上映されていたロンドンの映画館で、興奮した不良少年・少女が座席を破壊して踊り始めたというテレビのニュースとともに、「ビル・ヘイリー&ザ・コメッツ」による「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(1955年リリース)が流れると、


「ビル・ヘイリー&ザ・コメッツ」の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」

ポールさんは、この時、生まれてはじめて、ロックンロールというものに接したそうで、

あの日、生まれて初めて背筋に電流が走るのを感じたんだ!

と、衝撃を受け、すぐにロックンロールに夢中になったのでした。

ちなみに、この曲は、映画「暴力教室」の主題歌として使用されたことで、ロックンロール史上初のヒット曲となっているのですが、当時イギリスで上映された時には、それを聴いたティーンエイジャーたちがロックに目覚め、暴動騒ぎを起こしたそうです。

「ポールマッカートニーとジョンレノンの出会いは?」に続く

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