4歳で役者デビューされると、22歳の時、酒屋の丁稚(でっち)役をコミカルに演じられ、たちまち人気を博した、松竹新喜劇のスター、藤山寛美(ふじやま かんび)さん。喜劇俳優として大成される一方で、その破天荒な私生活が今尚、語り継がれています。
4歳で役者デビュー
藤山さんは、1929年6月15日、
大阪府大阪市西区に生まれると、
1933年、3歳の時、
関西新派「成美団」の俳優だった、
お父さんの藤山秋美さんが亡くなったことで、
新派を代表する女形役者だった花柳章太郎さんから、
「藤山寛美」と命名され、
翌年の1934年、4歳の時、
初舞台に立たれます。
その後は、関西新派の、
都築文男さんに師事されるのですが、
13歳の時、二代目渋谷天外さんに誘われ、
「松竹家庭劇」に移籍されています。
ソ連抑留を経て戦後、松竹新喜劇に参加
そんな藤山さんは、
1945年3月、15歳の時、
皇軍慰問隊の一員として旧満州へ。
現地で終戦を迎えたため、
ソ連に抑留されてしまうのですが、
その後解放され、
ハルビンで、キャバレーのボーイ、
靴磨き、芝居をしながら、なんとか食いつなぎ、
1947年秋に、ようやく帰国されています。
また、ちょうどその頃、
大阪道頓堀の中座(なかざ)で、
師匠格に当たる2代目渋谷天外さん、
曾我廼家十吾さん、浪花千栄子さんらが、
「松竹新喜劇」を旗揚げされているのですが、
1948年、19歳の時、
藤山さんもこれに加わられています。
アホ役で大ブレイク!
それから3年後の1951年、
藤山さん、22歳の時、
舞台「桂春団治」で、渋谷天外さん扮する、
主人公の春団治にツケを取り立てに行く、
酒屋の丁稚(でっち)役の藤山さんは、
「ツケを払うとくなはれ!」
と、たったひとことだけの超端役にもかかわらず、
本番では、天外さん相手に、
延々とアドリブを続けられると、
このとぼけた会話が観客にウケ、
一躍人気者に!
そして、この人気は、
大阪だけではなく、東京公演でも、
「フジヤマ旋風」と呼ばれるほどの、
ブームを巻き起こし、
1959年放送のテレビ番組、
「天外の親バカ子バカ」は、
最高視聴率58%を記録する超人気番組に成長。
「天外の親バカ子バカ」より。藤山さんと2代目渋谷天外さん。
この成功により、藤山さんの名は全国的に有名となり、
大阪道頓堀の中座は、連日満員御礼になったそうで、
大卒の初任給が2万円という時代に、
藤山さんのお給料は、なんと80万円となったそうです!
(今の貨幣価値に換算すると月給1000万円!)
派手に豪遊
もともと、藤山さんは、
お茶屋の女将さんだったお母さんの、
「遊ばん芸人は花が無うなる」
の教えからか、お金遣いが荒かったのですが、
アホ役でブレイクされると、ますます拍車がかかり、
夜な夜な街に繰り出しては派手に豪遊。
ある時には、バーのボーイに、
「チップ」と称し、車のキーを渡し、
車一台をプレゼントされたこともあったそうで、
藤山さんは、その時のことを、
寛美が来た!と噂になるためには、
その飲み屋に5~6回は足を運ばなくてはならない。
しかし、車を買って与えれば、すぐに噂も広まり、
そのうちの何割かは舞台へ足を運んでくれるだろう。
宣伝料だと思えば、安いものだ。
と、おっしゃっており、
すべては、多くのお客さんに、
来てもらうためだったとのこと。
ちなみに、藤山さんは、
大阪から京都の祇園までタクシーで乗り付け、
連日、芸者遊びをされていたのですが、
その芸者の中のひとり、
峰子さんと後に結婚。
ただ、結婚後、子どもが生まれても、
豪遊を辞められなかったことから、
峰子さんは、大事な着物を質に入れ、
家計を支えられたと言われています。
多額の負債を抱えて自己破産
やがて、藤山さんは、
羽振りの良さを誇示するために借金、
さらには、知人から騙された、
巨額の負債などもあり、
1966年には、
1億8000万円の負債を抱えることに。
(現在の貨幣価値で約7億2千万円!)
そして、ついに自己破産。
それでも、藤山さんは、
「役者であり続ける限り、客は応援してくれる」
と、信じていたのですが、
劇場の客席やロビーに、借金取り立ての、
ヤクザがたむろするようになったことで、
客足は遠のいていき、
藤山さんは、松竹からも、
契約解除(クビ)を宣告されてしまったのでした。
任侠映画に出演
その後、藤山さんは、
当時、東映の常務だった岡田茂さんを頼り、
東映の任侠映画で、
鶴田浩二さんらの助演を務めるなど、
生計を立てていかれるのですが、
一方、松竹新喜劇は、藤山さんが去った後、
ますます客足が遠のいてしまっており、
当時、人気漫才師だった、
ミヤコ蝶々さんと南都雄二(なんとゆうじ)さんを、
迎え入れるも、客足が戻ることはなく、
さらに、2代目渋谷天外さんが、
脳出血で倒れたこともあり、
ついに、松竹は、
藤山さんの莫大な負債を立て替えて、
藤山さんを呼び戻すことにしたのでした。
松竹新喜劇にカムバック
すると、藤山さんが復帰した、
松竹新喜劇は大盛況!
以降、藤山さんは、まるで、
何かに取り憑かれたかのように、
芝居に邁進されたそうで、
「何よりもお客さんに喜んでもらうために」
をモットーに、楽屋で寝起きされるなど、
稽古場では、殺気すら、
漂っていたと言われています。
ただ、そのワンマンなやり方には、
体力的な限界を覚える役者や、
反発する役者も少なくなく、
貴重な助演者だった、
曾我廼家鶴蝶さん、小島秀哉さんが、
退団されています。
突然、松竹新喜劇を辞めた、曾我廼家鶴蝶さん、
小島秀哉さんの、その後を伝える記事。
244ヶ月連続無休公演
そして、藤山さんは、
復帰から20年後の1987年、
244ヶ月連続無休公演という、
演劇史上、前例のない記録を打ち立てられています。
30日のうちの25日間は、
昼3本、夜3本という公演をこなし、
残りの5日間は、
次の公演への稽古に充てるという、
ハードなスケジュールを、20年間、
休むことなく続けられたそうで、
莫大な負債も、復帰から19年目に、
見事、完済されたのでした。
ちなみに、藤山さんは、
騙されて負った多額の負債について、
アホをやっておりますが、
わてのアホはどうやら本物らしゅうおます。
と、喜劇役者らしいコメントをされています♪
死去
しかし、そんな藤山さんも、
1990年3月に体調不良を訴え、
大阪市立大学付属病院に検査入院されると、
「肝硬変」と診断され、
同年5月、あっという間に、
60歳の生涯を閉じられたのでした。
奥さんの峰子さんは、
藤山さんの最期について、
最後の最後まで役者でしたよ。ですから、病院でも、
「手甲脚絆(てっこうきゃはん)持って来い!」ですとか・・・
(※芝居の時に衣装として使う、
前腕の前3分の2をカバーする布で出来た装具)
そして、自分でじっと考えて、
「あ、ここは病院か・・・」って。
亡くなる1時間前までは、ウロウロ歩いてたんです。
で、最後に「ええ本が欲しい・・・」「芝居がしたい」と言うてね。
それが本当に最後の言葉なんです。
と、明かされていました。
さて、いかがでしたでしょうか?
最後の最後まで、
芸を追求し続けた藤山さん。
お芝居に関しては、
ワンマンを通していた藤山さんですが、
友人や舞台関係者には、舞台裏で、
大好きだったミックスジュースを、
手作りして振る舞ったり、
大阪のジャーナリストのために、
菓子折りとのし袋を常に用意されるなど、
営業活動を忘れなかったところも、
さすがですね!
60年の人生のうち56年をお芝居に捧げ、
極めたその芸は、今も作品の中で輝いています。
ぜひ、この機会に、
藤山さんの作品をご覧になってください!!