「ドクターX ~外科医・大門未知子~」「相棒」など、話題のドラマに次々と出演し、主人公を引き立たせる名脇役として活躍されている、岸部一徳(きしべ いっとく)さんですが、実は、昔は、グループサウンズで絶頂を極めた「ザ・タイガース」のメンバーとして活躍されていました。今回は、そんな岸部さんの生い立ちからご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?

岸部さんは、1947年1月9日生まれ、
京都府京都市のご出身、

身長181センチ、

血液型はA型、

学歴は、
京都市立朱雀第八小学校
⇒京都市立北野中学校
⇒京都市立伏見工業高等学校建築科卒業

趣味は映画鑑賞だそうです。

本名は?芸名の由来は?

岸部さんの本名は「岸部修三(きしべ しゅうぞう)」で、旧芸名は「岸部修三(きしべ おさみ)」「岸部おさみ」だったそうですが、

ミュージシャンから俳優に転身するにあたり、樹木希林さんの事務所に所属された際、樹木さんの考案で、岸部さんのお父さん・岸部徳之輔の「徳」、そして「一」から出発するという思いと、樹木さんと仲の良かった市川森一さんの「一」をとって、「岸部一徳」と改名されたのだそうです。

ちなみに、岸部さんの「ザ・タイガース」時代の愛称は、「サリー」なのですが、なぜ、女性の名前なのかというと、岸部さんは、身長181センチもある痩せ型だったことから、リトル・リチャードの楽曲「ロング・トール・サリー」(のっぽのサリー)にちなんで、音楽仲間によって名付けられたそうです。

少年時代は父親が遊び人のため貧乏生活

さて、岸部さんは、元職業軍人(戦時中は憲兵)だったお父さんのもと、6人兄弟の三男として誕生するのですが、岸部さんが幼い頃に両親は離婚。

岸部さんたち兄弟は、お父さんと暮らすことになるのですが、お父さんは、定職に就かず、フラフラとした遊び人だったことから、借金がかさんでは夜逃げを繰り返したそうで、

岸部さんが小学校1年生の時、伯母さん(父の姉)を頼って熊本へ引っ越したかと思えば、それから1年後には、再び京都に戻り、さらにその後も、小学校を4回も転校するなど、あちこちを転々とされたそうです。

(4畳半の部屋に、お父さんの妾とその子どもと合わせて9人が住んでいたこともあったそうで、生活はかなり厳しかったそうです)

瞳みのる、森本太郎、加橋かつみと出会う

そんな中、岸部さんは成長し、京都市立北野中学校に入学すると、そこで、瞳みのるさん(後の「ザ・タイガース」のメンバー)と知り合い、ともに牛乳配達のアルバイトをするなど、親交を深めたそうで、

その後、岸部さんが京都市立伏見工業高等学校に進学し、瞳さんが別の高校に進学したことで、一旦、交友が途絶えるも、1963年、高校2年生の時、京都の四条河原町で再会すると、これをきっかけに、瞳さんの友人だった森本太郎さんや加橋かつみさん(いずれも後の「ザ・タイガース」のメンバー)も交えて、4人で一緒に遊ぶようになったのだそうです。

ちなみに、4人は、パチンコ、麻雀、ダンスに夢中になり、特に、麻雀をよくやったそうですが、いつも、小学校時代からやっていた岸部さんの一人勝ちだったそうです。(麻雀の資金はバイトで稼いでいたそうです)


1964年12月12日付の京都新聞夕刊の読者写真コンテストの入選作「踊る若者たち」の中に、偶然、写ったという岸部さん。

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バンド「サリーとプレイボーイズ」を結成しベーシストとして活動

そんな岸部さんたち4人は、当時、不良のたまり場といわれていた京都の四条河原町にあったダンス喫茶「田園」に入り浸るようになったそうで、

1965年1月には、大阪で開催された「ベンチャーズ」のコンサートに4人で観に行ったことをきっかけに、(女の子にモテたかったから、という理由で)バンド「サリーとプレイボーイズ」を結成。

岸部さんはベーシストとして、主に「ベンチャーズ」などのエレキインストナンバーを演奏したそうですが、パーティー券を売っては、ダンスホールでの演奏を繰り返すと、「サリーとプレイボーイズ」は、これまでにあまりなかったスタイルから、たちまち人気を博したのでした。

「岸部一徳の若い頃は沢田研二らとファニーズで活動していた!」に続く

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