「シーサイド・バウンド」が大ヒットした、岸部一徳(きしべ いっとく)さんら「ザ・タイガース」ですが、この大ヒットにより、熱狂的なファンが合宿所の雨戸に穴を開けて中を覗くようになったほか、分刻みのスケジュールにより睡眠時間が取れないストレスなどで、メンバー間の争いが絶えなくなっていきます。
「岸部一徳や沢田研二らを支えた「もう一人のタイガース」とは?」からの続き
加橋かつみが浮いた存在になっていく
熱狂的なファンの追っかけや過密スケジュールのストレスから、合宿所内で言い争うことが増えていった、岸部さんたち「ザ・タイガース」のメンバーは、1967年7月23日には、新宿区左門町へ引っ越しするのですが、
実は、加橋かつみさんだけは、その3日前の7月20日に、一人だけ、麻布のアパートへ引っ越ししていたといいます。
というのも、加橋さんは、当時、著名人、文化人などの交流の場であった、イタリア料理店「キャンティ」のオーナーである、川添浩史さん・梶子さん夫妻と親交を深めており(梶子さんとは恋愛関係にあったと言われています)、芸術や文化など、今まで知らなかった世界を知って刺激を受け、メンバーに話をしていたそうですが、
加橋さんが思い描く理想の世界は、必ずしもメンバーには理解されるものではなく、次第に、加橋さんは浮いた存在になっていたのです。
加橋かつみが不満を募らせていく
また、加橋さんは、音楽性など自分たちの意見(「ビートルズ」等のロックを原点とする音楽志向)をまったく聞いてもらえないうえ、ダンスにも行けず、マージャンもできず、友人にも会えないなど、個人の権利も尊重されないまま、ろくに寝る時間も取れない過密なスケジュールで、事務所の利益優先に働かされていることに、
次第に、アイドルとしての自分自身、ひいては、「ザ・タイガース」の存在にも疑問を感じ始めるようになっていったといいます。
(そんな中、加橋さんは、1967年11月2日には、寝坊で仕事に穴をあけています)
加橋かつみと沢田研二が不仲に
そのため、ほかのメンバーほど音楽性にこだわりがなく、事務所の意向に忠実で、プロに徹してひたすら仕事をこなす沢田研二さんに対しても、時間と規則に縛られることに疑問を感じていた加橋さんは、反発心を抱くようになり、二人はよくケンカをするようになっていったそうですが、
1968年1月27日、「渋谷公会堂」の楽屋で、(原因は不明ですが)激しい殴り合いのケンカをすると、
(それでも、お二人は、ステージ上では何事もなかったようにこなしたそうですが、その夜、加橋さんは川添さんの自宅で、沢田さんは「渡辺プロダクション」の副社長・渡辺美佐さんの自宅で号泣されたといいます)
以降、二人は口を聞かなくなったそうで、ついに、1968年4月頃、加橋さんは、人気絶頂の中、「ザ・タイガース」を脱退したい意向を関係者に明かしたのでした。
岸部一徳はメンバーの聞き役に徹していた
ちなみに、岸部さんは、後に、
グループの中で方向性の違いや、ケンカはしょっちゅうでした。いまの人はどうだか分からないですけど、昔は平気でケンカしたり、「あいつは嫌いだ」ってことを言いながら、それでもステージはちゃんとやるんです。
と、メンバーが不仲だったことを認められているのですが、
瞳みのるさんは、
タイガースでも、1番手は沢田研二で、サリー(岸部の愛称)は2番手以下だった。でも、彼は2番手以下の生き方を知っている。サッカーにたとえれば、シュートを打つFWではなく、アシストをするMFです。
男が5人集まれば、けんかもありますが、彼は自分を主張することなく聞き役に徹していました。サリーは出過ぎた真似をしないので、主役にとっては、「自分の座を奪われることはない」という安心を感じられる存在なんです。
と、岸部さんが、中立的な立場でメンバー間の争いの緩衝材に徹していたことを明かされています。