1960年代「ザ・タイガース」のメンバーとして一世を風靡して以来、半世紀に渡り、音楽活動を続けられている、沢田研二(さわだ けんじ)さん。今回は、そんな沢田さんの、生い立ちからブレイクに至るまでの経緯についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?

沢田さんは、1948年6月25日生まれ、
京都府京都市のご出身(鳥取県鳥取市生まれ)、


7歳の時の沢田さん

身長171センチ、

血液型はA型、

学歴は、
京都市立第三錦林小学校
⇒京都府立岡崎中学校
⇒京都府立鴨沂高等学校中退

趣味は、
野球観戦、サッカー観戦、飲み歩き、食べ歩き、空手、

だそうです。


沢田さんのお父さんと赤ちゃんの頃の沢田さん。

本名は?芸名の由来は?

ちなみに、沢田さんの本名は「澤田研二(読み同じ)」なのですが、お父さんが舞鶴市内の火薬研究所の取引先に勤務し、沢田さんが二番目の子どもだったため、「研二」と名付けられたそうです。(戸籍上は、「研」という文字の右下に点があるそうです)

また、沢田さんの愛称は、言わずと知れた「ジュリー」なのですが、なぜ、女性の名前なのかというと、沢田さんは、アメリカの女優、ジュリー・アンドリュースさんのファンだったことから、自身で名付けられたのだそうです。


「メリー・ポピンズ」出演時のジュリー・アンドリュースさん。

野球少年だったが芸能界に憧れていた

さて、沢田さんは、舞鶴市内の火薬研究所の取引先に勤務していたお父さんのもと、両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市津ノ井)で誕生すると、スポーツばかりやっている、活発な子どもだったそうで、特に野球が好きだったことから、「夢はプロ野球選手になること」と、周囲に言っていたそうです。

ただ、口ではそう言いながら、実は、歌手や俳優などに憧れていたそうで、歌手や俳優は、実力がものをいう野球とは違い、それ以外の、別の何かが必要だと、子ども心に感じていたことや、お父さんも、俳優を目指し、映画監督の書生をするも、結局は夢をあきらめたという経緯があったことから、「自分もどうせなれっこない」と思い込んでいたのだそうです。

たむろしていたダンス喫茶「田園」で歌手になろうと決心

そんな沢田さんは成長し、中学時代は、野球部で、キャプテン・一塁手として、京都市大会では4位に進出し、京都府大会に進出するのですが、この大会で負けてしまい、野球選手になる夢を諦めたそうです。

中学卒業後は、京都の名門進学校に進学するも、野球に挫折した沢田さんは、学校自体がおもしろくなくなり、高校1年の時には、友達に誘われるまま、当時、不良のたまり場と言われていた京都の四条河原町にあったダンス喫茶「田園」に出入りするようになったそうですが、

そこで、

1曲覚えてきたら歌わしたる

と、言われ、一生懸命覚えて歌を歌わせてもらうと、その時の快感が忘れられなくなり、将来の不安を感じながらも、歌手を目指し、バンドマスターの付き人をしながら、歌を歌い始めたのでした。

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岸部一徳からスカウトされ「ファニーズ」に加入

こうして、沢田さんは、「田園」で、美樹克彦さんの「俺だって」や、リトル・リチャードの「愛しておくれ」などを歌っていたのですが、

そんな沢田さんを見て魅力を感じた、バンド「サンダース」のリーダーから、その場でスカウトされ、「サンダース」のヴォーカル兼サポートメンバーになると、

(「サンダース」は、一緒に「田園」に出入りするようになった友達のお兄さんのバンドだったそうです)

さらにその後、リードヴォーカルを探していた、「サリーとプレイボーイズ」のサリーこと、岸部一徳さんから、リード・ヴォーカルにスカウトされます。

瞳みのるさんに熱心に誘われたという説あり)

ちなみに、「サリーとプレイボーイズ」のメンバーには、岸部さんのほか、瞳みのるさん、森本太郎さん、加橋かつみさんがおられたのですが、

沢田さんは、自分と同年代の人間にヴォーカルとして誘われたことがうれしく、また、4人のメンバーの感じが良かったことに惹かれ、この誘いを受けると、

どうせ売れやしないよ

と、引き止めるバンドマンスターを何度も説得して、1966年元旦、17歳の時、「サリーとプレイボーイズ」に加入。

それと同時に、「サリーとプレイボーイズ」は、エレキバンド「リンド&リンダース」の高木和来さんによって、バンド名を「ファニーズ」と改名したのでした。

「沢田研二らファニーズのアパートは大阪西成区の薄汚れた木造2階建だった!」に続く

「ファニーズ」。(左から)森本太郎さん、加橋さん、瞳みのるさん、沢田さん、岸部一徳さん。

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