1966年、京都のダンス喫茶「田園」でステージに立っていたところ、「サリーとプレイボーイズ」の岸部一徳さんにスカウトされて、共に「ファニーズ」で活動を始めた、沢田研二(さわだ けんじ)さんは、早速、関西バンドの憧れである、ジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属契約を取り付けます。

「沢田研二の若い頃は岸部一徳にスカウトされファニーズで活動していた!」からの続き

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ジャズ喫茶「ナンバ一番」と専属契約

1966年、元旦、沢田さんがヴォーカルに加わり、岸部一徳さん、瞳みのるさん、森本太郎さん、加橋かつみさんの5人で活動することになった「ファニーズ」は、

プロを意識し、関西バンドの憧れのステージである大阪・難波(なんば)にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属オーディションを受けることを目標に、練習に練習を重ねると、

ある日、瞳さん(岸部さんという説もあり)がオーディションの段取りを取り付けてきたそうで、同年、1月16日に行われたオーディションで、「ビートルズ」「I Saw Her Standing There」「ディブ・クラーク・ファイブ」「Do You Love Me」を演奏すると、2月1日には見事合格。

「ファニーズ」は、2月10日より、週2回、ワンステージ30分、1日5回のステージを行う契約を結びます。

「全関西エレキバンドコンテスト」で優勝

すると、ジャズ喫茶「ナンバ一番」で、「ビートルズ」「ローリング・ストーンズ」の曲を英語で歌った「ファニーズ」は、瞬く間に「ナンバ一番」で絶大な人気を博したそうで、

1966年5月10日に、京都会館で開かれた「全関西エレキバンドコンテスト」でも、「ローリング・ストーンズ」「satisfaction」を演奏すると、見事優勝したのでした。

(コンテストの賞金は5万円だったそうで、沢田さんたちはその賞金でお揃いのスーツを作り、ユニフォームにすると、後にこのユニフォームは、「タイガース」のデビュー曲「僕のマリー」のジャケットに使われたそうです)

岸部シローがアドバイザー的役割を果たしていた

ちなみに、沢田さんたちは、当初、「全関西エレキバンドコンテスト」への出場曲を決めかねていたそうですが(当初、優勝などは考えてもいなかったそうです)、

岸部一徳さんの弟で、まだ中学を出たばかりだった岸部シローさんに勧められ、「satisfaction」を演奏することになったそうで、

シローさんは、もともと、「ビートルズ」サウンドに感激して洋楽に興味を持ったそうですが、「ファニーズ」には、大好きな「ビートルズ」ではなく、「ローリング・ストーンズ」を勧めるなど、この頃、すでに才能の片鱗を見せており、その後も、メンバーの良きアドバイザー的存在としてサポートされたそうです。

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大阪・西成区で合宿生活

そんな沢田さんたち「ファニーズ」は、コンテストから3日後の5月13日には、本格的に音楽活動をするため、岸部さんの提案により、大阪市西成区岸里のアパート「明月荘」で合宿生活を始めます。

沢田さんたちは、「リンド・アンド・リンダース」のベースマン・宇野山和夫さんに紹介されて、「明月荘」の3部屋を1部屋あたり3000~4000円で借りると、沢田さんと森本さん、岸部さんと瞳さんが2人1組となって部屋を割り当て、加橋さんだけ階段下の小部屋に一人で住まれたそうですが、

(ただ、この部屋割には諸説があり、日によって変わっていたとも言われています。また、沢田さんと岸部さんはその部屋に定住し、瞳さんと森本さんは、決められた部屋から頻繁にどこかに移動されていたとも)

瞳さんの自伝「ロング・グッバイ」によると、

リンド・アンド・リンダースのベースマン・宇野山さんが住んでいたのはアパート「明月荘」(昼間でさえ暗く、湿気の多い薄汚れた木造二階建て)であった。三畳一間、共同トイレ。場所は釜ヶ崎に近い岸里で決して品のよいところではなかった。

とのことで、この合宿生活はなかなか大変だったようです。


ロング・グッバイのあとで

(「釜ヶ崎」と呼ばれる一帯は、「西成区」の北東の方で、「明月荘」は南の方に位置しているため、瞳さんは記憶違いをしていると思われますが、品のよいところでないことは確かなようです)

「沢田研二らファニーズは内田裕也にスカウトされていた!」に続く

ファンの聖地として親しまれた「明月荘」ですが、2019年4月に取り壊されてしまいました。

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