1960年代後半、「ザ・タイガース」でリードギターとヴォーカルを担当し、透き通るような高音とイケメンなルックスで人気を博した、加橋かつみ(かはし かつみ)さん。そんな加橋さんと「ザ・タイガース」デビューまでの経緯について調べてみました。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
加橋さんは、1948年2月4日生まれ、
大阪府堺市のご出身(京都府育ち)、
身長165センチ、
体重50キロ、
血液型はB型、
本名は、
高橋克己(たかはし かつみ)、
愛称は、
トッポ(トッポ・ジージョに似ていたことから)、
学歴は、
大阪工業大学高等学校(現・常翔学園高等学校)
⇒京都府立山城高等学校中退
だそうです。
瞳みのるとの出会い~「ファニーズ」結成
加橋さんは高校生の時(1964年頃)、校門の前で、
バイクが故障して困っていた瞳みのるさんと出会い、
バイクを修理してあげたことがきっかけで仲良くなると、
その後、瞳さんを通じて、岸部修三(おさみ)(現・岸部一徳)さん、
森本太郎さんとも仲良くなり、
4人で、麻雀をしたり、京都四条河原町のダンスホール
「田園」に入り浸るなど、いつも一緒に遊んでいたそうで、
1965年1月には、大阪で行われた「ベンチャーズ」のコンサートを、
4人で観に行ったことがきっかけで、バンド「サリーとプレイボーイズ」を結成。
(左から)森本太郎さん、瞳みのるさん、加橋さん、岸部さん。
とはいえ、4人とも楽器は素人だったことから、
パートをじゃんけんで決めるなど、
まったくのゼロからのスタートだったそうで、
演奏だけで精一杯だったため、3ヶ月経った頃には、
専属ヴォーカルが必要だと感じるようになり、
四条河原町のダンスホール「田園」に出演していた、
「ザ・サンダース」のヴォーカル兼サポートメンバーだった、
沢田研二さんをリード・ヴォーカルにスカウト。
翌年の1966年元旦には、沢田さんを合わせて、
グループ名も「ファニーズ」と改名されたのでした。
関西で人気爆発し上京
そして、早速「ファニーズ」は、
当時、大阪難波にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」の、
専属オーディションを受けると、見事合格。
当初は週2日のステージを行う契約を結んでいたのですが、
イケメンぞろいの「ファニーズ」はたちまち人気を博して、
ステージの出演回数がどんどん増えていき、
6月には、「ナンバ一番」の人気投票で1位を獲得。
「ファニーズ」(左から)森本太郎さん、加橋さん、
瞳みのるさん、沢田研二さん、岸部一徳さん。
(実は、「ナンバ一番」の専属オーディションでは、
明らかに自分たちが一番下手だったにもかかわらず合格し、
不思議に思っていたそうですが、加橋さんが後に聞いた話によると、
押しかけマネージャーの一人が裏で審査員を脅していたそうです♪)
さらに、そんな「ファニーズ」の関西での爆発的な人気を聞きつけた
東京の芸能関係者からも、誘いを受けるようになると、
ある日、「ナンバ一番」のステージを観覧していた内田裕也さんに、
「東京に来る気があるか」と声をかけられるのですが、
その後3ヶ月経っても話がまったく進まなかったため、
業を煮やした当時のリーダー瞳さんが、単身で上京して、
内田さんに面会し、メンバーを東京に呼ぶ約束を取り付けると、
10月には、内田さんのバンド「ブルージーンズ」が所属していた、
渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)
のオーディションを受け、見事合格。
こうして、「ファニーズ」は「渡辺プロダクション」と契約し、
11月には関西での活動を終え、上京したのでした。
「ザ・タイガース」に改名~「シーサイド・バウンド」でブレイク
上京後は、内田さんが売り込んでくれて、
音楽番組「ザ・ヒットパレード」に出演が決まり、
プロデューサーにバンド名を「ザ・タイガース」に変更されて、
1967年2月、ファーストシングル「僕のマリー」でデビューすると、
「僕のマリー」
同年5月にリリースしたセカンドシングル「シーサイド・バウンド」が、
レコード売上40万枚を超える大ヒットを記録。
「シーサイド・バウンド」
以降、
1968年「君だけに愛を」
「銀河のロマンス/花の首飾り」
「シー・シー・シー」
とリリースしたシングルが
立て続けに大ヒットを連発し、
「ザ・タイガース」は、当時流行していた、
グループ・サウンズの中でも頂点を極めたのでした。
ちなみに、加橋さんも、そんな「ザ・タイガース」において、
沢田研二さんと人気を二分するほか、
高校生の頃、グラフィックデザイナーを目指していたこともあり、
メンバーの衣装をデザインするなど、
バンドに欠かせない存在として活躍されたのですが・・・
「加橋かつみの失踪の真相は?パリ?川添象郎と大麻で逮捕され懲役刑!」に続く
https://www.youtube.com/watch?v=GViQ8VXL7rk