1975年には、夫の宇崎竜童さんに頼まれた作詞した「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」の「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」がミリオンセラーとなり、一躍脚光を浴びた、阿木燿子(あき ようこ)さんですが、翌年の1976年には、思わぬ人物から仕事の依頼が舞い込んだといいます。

「阿木燿子は昔「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒットしていた!」からの続き

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山口百恵に提供した「横須賀ストーリー」が大ヒット

1975年、夫・宇崎竜童さんの「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」に提供(作詞)した「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒットし、宇崎さんと共に夫婦で脚光を浴びた阿木さんは、

翌年の1976年6月には、当時、16歳だったアイドル歌手・山口百恵さんに提供した「横須賀ストーリー」が81万枚を売り上げる大ヒット。

これにより、阿木さんも、同年末には、「第18回日本レコード大賞作詞賞」を受賞するほか、「これっきり これっきり もう これっきりですか」のフレーズ(歌詞の一部)と共に、一世を風靡し、その名を世に知らしめます。

(山口さんも、この曲の大ヒットをきっかけに、早熟な少女から、自分の意思を持つ自立した大人の女性象への脱皮に成功しました)


横須賀ストーリー

「横須賀ストーリー」は山口百恵本人からの依頼で作られた曲だった

ところで、この「横須賀ストーリー」、実は、突然、阿木さん&宇崎さん夫妻のもとに、

山口百恵に、曲を書いてもらえませんか?

と、電話で依頼が来たそうですが、

当時、宇崎さんはロックバンド「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」のリーダーで、不良キャラで売っていたことから、何の縁もゆかりもない、アイドルというはるか遠くのジャンルからの依頼に、阿木さんと宇崎さんは当初、戸惑ったといいます。

また、その依頼が、山口さん本人からの希望らしいとの噂も耳に入ってきたそうですが、当時、アイドルは事務所の言いなりになるのが一般的で自己主張など考えられない時代だったため、阿木さんは、まだ、10代のアイドルが自分たちのような駆け出しのコンビに自分から曲を書いてほしいと言ってくるはずがないと、全く信じていなかったそうです。

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横須賀と山口百恵の「陰」というイメージがぴったりと重なっていた

とはいえ、戸惑いながらも、阿木さんと宇崎さんはこの依頼を受けたそうですが、仕事の依頼は、アルバム用に3~4曲書いてほしいというものだったそうで、山口さんとは年齢が少し離れていた阿木さんは、当初は、一体何を書けばいいのか途方に暮れたそうです。

ただ、ふと、山口さんの出身地が、阿木さんの実家がある神奈川県・横須賀市だということに気がつくと、「横須賀」を曲の舞台にしようと閃(ひらめ)いたそうで、

(明るい港町である横浜に対し)同じ港町でありながら、軍港で軍艦も停泊してしている、どことなく「陰」がある横須賀のイメージが、同じく「陰」を感じさせる山口さんにぴったりと重なったのだそうです。

(山口さんは、「青い果実」(1973)、「ひと夏の経験」(1974)など、まだ、10代の少女でありながら、過激な性表現のある歌詞を歌って大ヒットさせているのですが、(セクシー路線ではなく)純朴な少女というヴィジュアルとのギャップが陰影を作り、どこなとなく陰のある少女として人気を博しました)

「阿木燿子が山口百恵に作詞した「横須賀ストーリー」は当初アルバム収録曲だった!」に続く

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