1964年、17歳の時、「君だけを」でレコードデビューすると、いきなり、60万枚を売り上げる大ヒットとなった、西郷輝彦(さいごう てるひこ)さんは、1966年にも、「星のフラメンコ」が大ヒットを記録。当時、人気を博していた橋幸夫さん、舟木一夫さんとともに、「御三家」と呼ばれるようになり、アイドルとして頂点を極めます。

「西郷輝彦はデビュー曲「君だけを」でいきなり大ヒットしていた!」からの続き

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シングル「星のフラメンコ」が大ヒット

1964年、デビュー曲「君だけを」が大ヒットを記録した西郷さんは、

その後も、

1964年4月「チャペルに続く白い道」
     6月「星空のあいつ」
     8月「十七才のこの胸に」
     8月「青空の下夢がいっぱい」
     10月「君と歌ったアベマリア」
     11月「ジングルベル」
     12月「我が青春」


「星空のあいつ」


「十七才のこの胸に」

1965年1月「青年おはら節」
     2月「から松林の別れ道」
     4月「十代の涙」
     4月「涙をありがとう」
     4月「俺らは九州っ子」
     5月「始めからもういちど」
     7月「恋人ならば」
     7月「星娘」
     8月「星と俺とできめたんだ」
     10月「泣きたいときは泣き給え」
     10月「ペダルに生きるやつ」
     10月「ママとおふくろさん」
     12月「この虹の消える時にも」


「星娘」

1966年1月「西銀座五番街/恋のGT」
     2月「涙になりたい」
     3月「花の百万拍子」
     4月「僕だけの君」

と、立て続けにシングルをリリースすると、

「星空のあいつ」「十七才のこの胸に」「星娘」などヒット曲を連発し、あれよあれよとスターの座へと駆け上ります。

そして、1966年7月に発売した26枚目のシングル「星のフラメンコ」は、西郷さんの甘い歌声がファンの心をつかみ、50万枚を超える大ヒットを記録。

西郷さんは、当時、人気を博していた橋幸夫さんや舟木一夫さんとともに、「御三家」と呼ばれるようになり、アイドルとして頂点を極めたのでした。


「星のフラメンコ」より。

「星のフラメンコ」は実際にスペインに行ってフラメンコを見て制作されていた

ちなみに、「星のフラメンコ」は、西郷さんが、ゆったりとした優しいメロディーの青春歌謡曲が続いたため、そろそろビートの効いたリズム感あふれる歌をと、作詞家で作曲家の浜口庫之助さんにお願いして制作された「星娘」に続き、次もと再び浜口さんにリズムの効いた曲をお願いして制作された曲だそうですが、

1966年2月には、浜口さんと当時マネージャーだった相澤秀禎氏(後のサンミュージック代表取締役会長)と3人でスペイン・マドリードを訪れ、4日間毎日、劇場でフラメンコを見たそうで、

(西郷さんは、その情熱の音楽とダンスに感動して涙が出たそうです)

浜口さんが、

これを歌にしたいんだ

と、言うと、

西郷さんと相沢氏も、

かっこいいですね、日本で誰もやってないですよ

と、激しく同意したのだそうです。

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「星のフラメンコ」はデモテープの段階でヒットを確信していた

そして、帰国から約1ヶ月後、西郷さんが、浜口さんの録音した「星のフラメンコ」のデモテープを受け取ると、

(浜口さんはギターも歌も上手だったそうです)

そのデモテープはすでに完成の域に達しており、

一瞬で名曲だと思った。頭の「好きなんだけど」がビビっときた。素晴らしすぎて僕に歌えるか恐れみたいなものはあったけど、自分の好きなラテンの曲で血が騒いだ。

来たよ、来たよ、いい曲だよ、これ

と、西郷さんも納得の一曲だったそうで、

その後、レコーディングも一発OKとなり、発売前、浅草国際劇場でこの「星のフラメンコ」を披露すると、客席からはものすごい反響が。

(今では恒例となった「チャチャチャ!」という合いの手(手拍子)もすぐに客席から聞こえてきたそうです)

これで、西郷さんは、

今まで絶対ない歌謡曲で絶対売れると思いました。

と、ヒットを確信したのだそうです。

「西郷輝彦が若い頃は御三家(橋幸夫と舟木一夫と共に)と呼ばれていた!」に続く

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