相澤秀禎さんにスカウトされて「竜巳プロダクション」と契約するも、しばらくは仕事のない日々を過ごし、暇を持て余していた、西郷輝彦(さいごう てるひこ)さんですが、1963年、設立されたばかりのレコード会社「クラウンレコード」と契約すると、翌年の1964年には、いきなり、デビューシングル「君だけを」が大ヒットします。

「西郷輝彦は昔サンミュージックの相澤秀禎にスカウトされていた!」からの続き

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デビュー曲「君だけを」の良さが分からなかった

「コロンビアレコード」のディレクター・長田幸治さんからスカウトされ、長田さんについていくことを決意した西郷さんですが、デビュー曲として用意された「君だけを」は、初めて聴いた時、正直なところ、その歌の良さがまるで分からず、

これ、良いんですか?

と、あっけらかんと尋ねていたそうです。

(数日前まで洋楽を歌っていた西郷さんは、突然聴かされた、青春歌謡というジャンルの曲に面食らったのでした)

「西郷節」は強烈なダメ出しから誕生していた

そんな西郷さんは、銀座にあった事務所のレッスン室で特訓が始まったそうですが、初めて、作曲家・北原じゅんさんの前で「君だけを」を歌うと、

北原さんは、

どうしちゃったんだオマエ!その歌い方は!

と、驚いたそうで、

西郷さんが、

え?ダメですか?

と、言うと、

北原さんは、

その歌い方はまるで縮緬(ちりめん)だ

と、ダメ出し。

つまり、西郷さんは、細かいバイブレーションが長く続く歌い方をしていたそうですが、北原さんはそれを認めず、まずはそこから直そうと、バイブレーションは3つだけにしろとの厳命が下されたそうで、

この時、いわゆる「西郷節」と呼ばれる、

いつで~も・いつ~で~も~おぅおぅおぅ

というバイブレーションが誕生したのだそうです。

デビュー曲「君だけを」が大ヒット

こうして、猛特訓の末、西郷さんは、1964年2月、17歳になったばかりの頃、「クラウンレコード」より、新人専属歌手第一号として、ファーストシングル「君だけを」でデビューすると、なんと、いきなり、60万枚を売り上げる大ヒット。

これにより、西郷さんは、たちまちブレイクを果たしたのでした。


「君だけを」より。

歌手になった喜びを噛み締めていた

ところで、西郷さんは、「君だけを」が発売された直後は、まだ、ジャズ喫茶に出演していたのですが、休憩の合間に、近くのパチンコ店で時間をつぶしていると、

ふと、「君だけを」が店内に流れているのを耳にしたそうで、

あ、これ、ぼくの歌だ

と、思った瞬間、涙がこぼれ、

ああ、やったんだ、歌手になれたんだ

と、この時初めて歌手になれた幸せを実感したそうです。

人気を実感

また、デビュー後は、街を歩くと、女の子たちが騒ぎ、後をついてくるなど、「ファンという人たち」に取り囲まれるようになったそうで、

デビュー前に日比谷公園で雑誌の取材と写真撮影した時は普通に出来たものが、デビュー後、同じようにやろうと、日比谷公園に行くと、あっという間に人だかりができるようになり、撮影ができなくなってしまったそうで、

西郷さんは、これらの現象に、

もしかすると大変なことが起きているのではないだろうか

ひょっとしたら人気が出始めているのではないだろうか

と、自分の人気が急上昇していることに、気づき始めたのだそうです。

レコード会社「クラウンレコード」の対応が劇変

そうこうするうち、レコード会社「クラウンレコード」の対応も、

以前は、本社に行っても、

はいはい、そこらへんに座って待っていて

と、言われていたのが、

はい。今すぐ社長室にご案内いたします

と、激変したそうで、

西郷さんは、そのスピードについていけず、正直なところ、何が起きているのか分かっていなかったそうですが、

その頃は「毎日こんなに幸せでいいのか」という感じでしたね。鹿児島から家出してまで入りたかった音楽の世界で活躍できたわけですから。

と、明かされています。

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著書「生き方下手」に成功を掴み取った喜びを綴っていた

ちなみに、西郷さんは、後に、著書「生き方下手」にも、

17歳の誕生日を迎えた直後、ぼくは念願の歌手デビューを果たし、心底うれしかった。「いつかは」と「もうダメかも」は紙一重だ。

たった今、「ようし、今にみていろ」と思っていた雄々しい気持ちが、ものの5分後には「やっぱりあきらめた方が・・・」に変わってしまうことは何度もあった。デビューするまでの2年間は、強気と弱気の狭間をせわしなく行ったり来たりしていた。

17歳の時、歌手で売れたあと、鹿児島に仕事で帰ったときのことだ。この時の感動は忘れられない。凱旋そのものだった。宇宙飛行士が宇宙から帰ってきて紙吹雪舞う中でパレードするような、まさしくあの光景だった。

乗った飛行機が鴨池空港(当時)の上空に着き、滑走路に下りた瞬間、ボロボロと涙がこぼれた。ジャパニーズ・ドリームみたいな感覚だったのだろうか。

当時、鹿児島出身の芸能人はフランキー堺さんくらいしかいなかった、と思う。芸能界で成功する人など、東京や大阪、名古屋の出身者が中心で、九州・鹿児島から出ていくなんて考えられなかった時代だ。大変な世界だった。

と、綴っておられます。

「西郷輝彦は昔「星のフラメンコ」が大ヒットしていた!」に続く


生き方下手

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