玉音放送を聞いて終戦を知り、内心、解放感を感じたという、キダ・タローさんは、その後、アメリカから入って来たジャズなどに衝撃を受け、自分でも演奏してみたいと思うようになったといいます。

「キダ・タローの生い立ちは?幼少期はひ弱だった!」からの続き

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終戦後初めてジャズを聞き衝撃を受ける

1945年8月15日に終戦すると、1945年9月15日には、大阪で進駐軍向けのラジオ放送局WVTQが開局し、ジャズ、カウボーイソング、ポピュラーミュージックなど、今まで聴いたことのないアメリカ音楽が、怒涛のように流れてきたそうですが、

特に、初めてジャズを聞いたときには、それまで、日本の音楽(歌謡曲)のほかは、イタリアとドイツの音楽(カンツォーネやオペラなどのクラシック音楽)しか聴いたことがなかったキダさんは、今まで聞いたことのない輝きと楽しさと明るさを感じたそうで、世の中には、こんなに人生に密着した心から楽しめる音楽もあったのかと、もの凄いカルチャーショックを受けたそうです。

(特に好きだったのは、トランペット奏者のハリー・ジェイムス、カウントベイシー楽団、ダイナ・ショア、フランク・シナトラだったそうです)

16歳の時に兄の遺品のアコーディオンを弾き始める

そして、やがては、自分も演奏してみたいと思うようになったそうで、結核で他界したお兄さん(長男)の遺品である、アコーディオンを弾き始めたそうです。(16歳の時)

(当時は、誰もがそう思ったそうで、3人に2人がギターを買い、大学生はお金を持っているため、トランペットを買って、バンドを組んでいたそうです)

というのも、お兄さんは、太平洋戦争中に、結核を患い、自宅の2階で療養していたそうで、アコーディオンを欲しがったことから、お父さんが買いに行ったそうですが、戦争中だったことからどこの店にも売っておらず、

また、そもそも、本格的なアコーディオンは高額で、お父さんのお給料では買うことができなかったことから、お父さんが買ってきたのは、おもちゃに近いものだったそうですが、

それでも、お兄さんは、そのアコーディオンを嬉しそうに弾いていたそうで、亡くなると、お父さんとお母さんはとても悲しみ、床の間に、ずっと、お兄さんのアコーディオンを飾っていたのだそうです。

(アコーディオンの左手の部分には「ベース」と呼ぶ低音と和音を出す120個のボタンがあるそうですが(左手で低音とコードを、右手で鍵盤で旋律を弾くことが出来るそうです)、お父さんがお兄さんのために買ってきたのは、ボタンが8個しかなかったそうです)

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アコーディオンは姉に演奏を褒められて嬉しくなり練習するようになっていた

ちなみに、キダさんは、小学生の時、ハーモニカを吹いて遊んでいたそうですが、お兄さんの使っていたアコーディオンの教読本にはハーモニカの楽譜も併記してあったそうで、

たまたま、興味本位でアコーディオンを演奏してみると、それを聴いていたお姉さんから褒められ、嬉しくなり、アコーディオンの練習をするようになったそうで、

キダさんは、

小学生のとき、ハーモニカを吹いてましたでしょ。ハーモニカの楽譜というのは、一から八までの数字で書いてあって、音を伸ばすときは棒。五線紙よりも簡単。

アコーディオン教本を見たら、やはり五線紙の下に数字で(音階が)書かれていたんです。それは読めますやん。それで弾いていたら、姉が〝上手いやないの〟って言ってくれた

と、語っています。

「キダ・タローは高校の時に藤岡琢也と共にタンゴバンドで活動していた!」に続く

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