日清食品の「あ~らよ、出前一丁♪」、かに道楽の「獲れ、獲れ、ぴち、ぴち、かに料理♪」など、関西では、誰もが知っているコマーシャルソングを次々と手掛けてきた、キダ・タローさん。今回は、そんなキダさんの生い立ちをご紹介します。

「キダ・タローの本名は?なぜ浪花のモーツァルト?」からの続き

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幼少期はひ弱だった

キダさんは、(キダさんいわく松田優作風の)刑事だったお父さんのもと、兵庫県宝塚市の警察官舎で、6人兄弟(五男一女)の末っ子として誕生するのですが、産まれた時、仮死状態だったそうで、助産師さんがキダさんを逆さにしてお尻を叩き、初めて「オギャー」と産声をあげたそうです。

そのせいか、幼い頃は、身体も精神もひ弱な子供だったそうで、家族みんなに溺愛されて、波風を立てないように大切に育てられ、結果、あまり、欲のない子供に育ったそうです。

(学校では、持久走で、同級生がおぶって走ってくれたこともあったそうです)

関西学院中等部に進学

その後、キダさんは、お父さんの仕事の都合で、兵庫県下を10箇所ほど転々とし、1943年に今津国民学校を卒業すると、お母さんの意向で関西学院中等部に進学したそうですが、

当時、関西学院は(お金持ちの)お坊ちゃん学校と言われており、キダさんいわく、お母さんは親の見栄で、キダさんを関西学院中等部に入れたのだろうとのことです。

川西航空機宝塚製作所が爆撃を受け壊滅

ちなみに、キダさんは、阪急電車で通学していたそうですが、電車からいつも見えていた、小林駅と逆瀬川駅の間にあった、見渡す限り三角屋根が広がる川西航空機宝塚製作所(工場)が、1944年7月24日に空襲されて、ほぼ、壊滅に近い被害を受けたそうで、更地になった光景が今でも忘れられないそうです。

(川西航空機宝塚製作所は、航空機の機体やエンジンなどを製作していたことから、爆撃の対象となったそうです)

職業軍人だった兄の言葉により海軍に行くつもりだった

また、キダさんは、まさか、日本が負けるとは思っておらず、本土決戦になったら、竹槍を持って戦いに行くつもりだったそうですが、

戦争中で、徴兵が迫る中、上から3番目の職業軍人だったお兄さん(大阪・堺の連隊の曹長)から、陸軍がいかに少年兵に厳しいかということを散々聞かされ、

だから徴兵で行ったらあかん、兵隊に行くんやったら海軍や

と、言われていたことから、

もし、兵隊に行くとしたら、海軍に行こうと思っていたそうです。

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玉音放送で終戦を知り解放感を感じていた

ただ、視力が落ちてしまい、海軍に行くという選択肢がなくなると、視力が「0.7」でもいいと聞いていた、海軍経理学校へ行こうと思ったそうですが、

そんな中、1945年8月15日、14歳(旧制中学4年生)の時、学徒動員で東洋ベアリング武庫川工場にいた際、ラジオから流れる玉音放送(天皇の肉声の放送)を聞いたそうで、

(ラジオから流れる言葉は難しく、意味が分からなかったそうですが)漢文の先生が、「これは戦争が終わったんや」と教えてくれたそうで、

キダさんは、この時のことを、

そのときの解放感というのは、人生で後にも先にもない

と、語っています。

「キダ・タローは中学生の時アコーディオンを弾き始めていた!」に続く

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